旅人の手記 三冊目 ‐ 蝉海のブログ -

日常のよしなし事や、マンガ・アニメ・ライトノベルなどのポップ・カルチャーに関する文章をつらつらと述べるブログ。その他の話題もたまに。とっても不定期に更新中。

元(現役も)生徒会役員に読んで欲しいマンガ『んぐるわ会報』


『んぐるわ会報』1巻(高尾じんぐ スクウェア・エニックス)表紙

ヤングガンガン」(スクウェア・エニックス)という雑誌で
大分前に連載していたマンガに、
『んぐるわ会報』(高尾じんぐ)という作品があります。
この作品は、近年流行りのいわゆる
「生徒会もの」の一つとして数えられるでしょう。
同ジャンルの他作品と比べても、
生徒会の活動ぶりをかなり精緻に描いているということで、
生徒会役員を2年間経験したことのある私は大分前から注目していたのですが、
先日とある機会があって、ようやく全巻購入することにしました。

正直なところ、「生徒会役員」を主役に据えたマンガというのは、
明らかに生徒会の管轄内を超えているような権力を発揮したり、
あるいは現実で執り行うような活動とは遠く離れた
「活劇」を繰り広げたりなど、
かなりぶっ飛んだ内容のものが多いです(笑)(小川雅史の『速攻生徒会』など)
または、
いわゆる弱小文化部の「だべり物」をそのまま生徒会に置き換えたような
ものが近年の主流となっております。
(『生徒会の一存』シリーズ、『生徒会のヲタのしみ』など)

まあそんな風に、
「生徒会活動」事態をある程度のリアリティを以ってモチーフにしている
マンガ・アニメ作品というものは、極々少数となっているのが現状であります。
そのような中でこの作品は、
かなり現実的に生徒会活動を描いている特筆すべき存在といえるでしょう。


『んぐるわ会報』1巻(高尾じんぐ スクウェア・エニックス)P.190〜191

上の画像をご覧下さい。
これは「自販機にペットボトルの飲み物を追加するか」という議題について、
週に一度開かれる「定例会議」の場で真剣に論議している様子が、
かなり丁寧に描かれています。
この場面では、議案を職員会議にかけてもらう条件としての
全校アンケートと署名をどうするかという話をしていますが、
このような役員会による地道な活動が、物語の節々で取り上げられています。

また、彼らの活動振りを示した描写としては、次のようなものもあります。


『んぐるわ会報』3巻(高尾じんぐ スクウェア・エニックス)P.117

これは見ての通り、
文化祭準備日における実行本部室の様子を描いた一場面です。
待機している本部役員の女の子が
「書類の判押しばかりで、朝から軟禁状態だ」とぼやいていますが、
こうした経験は二度文化祭の運営側を経験しているものとしましては、
大変身に覚えのある状況でありまして(笑)
あの文化祭の準備期間という、混沌とした空気をよく描いていると思います。

作中で描かれる本部役員は、全部で5人から構成されています。
まずは、マイペースで常に飄々とした態度を取る3年生の生徒会長(本名不明)
(1巻表紙、2枚目の画像・右ページ4コマ目)
副会長は、
面倒見の良く穏やかな性格をした2年生の常盤と、
(2枚目の画像・右ページ2コマ目の右部、茶色のストレートロングの子)
常盤の幼馴染でぶっきら棒な口ぶりをする2年生の成子の2人
(3枚目の画像・黒髪短髪で右目が隠れている女の子)
それと、元気いっぱいでムードメーカーである1年生・書記の里見。
(2枚目の画像・左ページ3コマ目、ショートヘアの女の子)
最後に、謹厳実直な性格をして至極真面目な1年生・会計、松戸。
(2枚目の画像・左ページ2コマ目、短髪で長身の男子)
上記5人で、この学校の本部役員会が成立しています。

私が高校で生徒会をやっていた頃は、
会長1人、副会長2人(男女1人ずつ)、書記2人(男女1人ずつ)、会計2人(同左)
という7人構成であり、5人というのは少なく感じました。
私が卒業してからは立候補者が足らずに、5人だった時期もありましたが、
元役員の現役3年生が文化祭の時に、助っ人として相当に手伝いをしていたなど、
やはりかなり苦戦を強いられたと、後輩から伺っております。
ただそれでも本作の場合では、
予餞会(三年生を送る会)、新歓、文化祭などの各行事における実行委員会が、
相当しっかりしていて、よく働いてくれるようですので、
それなら、この人数で業務も回るのかもしれません。
(私の生徒会役員をやっていたときは、実行委員会を満足に機能させられず、
 殆どの行事における業務を、
 役員や役員と親しい生徒が直接執り行っていました)

定例会議、募金活動、新歓・文化祭などの行事、先生の雑用手伝い、等々、
どれも身に覚えがある活動ばかりで、
本作を読みながらついつい、自分の現役時代のことを思い出してしまいました。

しかし中には、私が現役のときに経験していないような活動も、
この作品の中では多数描かれていましたね。

その中でも特に作中で取り上げられるのは、地域ボランティア関連です。
町内のごみ拾いに始まり、幼稚園の訪問、高齢者介護施設の手伝い等々。
私が現役の頃はこのような活動をしたことが殆どなく、
地元の祭りに何人かの役員が有志で出たことがあるくらいです。
本当はもっとこういう活動をすると、
地域と学校における綿密なコミュニティ形成ができて、良いのですけれどね。

作中ではさらに、入学試験の試験官業務まで生徒会が手伝っています。
これは全く経験がなく、読んだ時はかなり驚きました。
気になったので調べてみましたが、
どうも学校によっては行うところもあるようです。

総合的に見て、概ね満足できる出来栄えの作品でした。
生徒会とは生徒全員で構成される政治機構であり、
本部役員会は全校生徒の利害を代表する機関であるという、
「政治教育」の側面としての
生徒会というファクターは前に出されていないところが、
少々不満として残りましたが、
これほど生徒会の活動を詳細に描いている作品も少ないため、
一読する価値は充分にあると言えるでしょう。

現役生徒会役員や元役員の人にちょっと読んでもらいたい作品だな、と思いました。

『鋼の錬金術師』、連載終了

昨日発売された「月刊少年ガンガン7月号」で、
マンガ『鋼の錬金術師』が、ついに連載終了を迎えました。

私がこの作品を読み始めたのは、2004年の春頃から。
同じ年の夏からガンガンを買い始めたので、
6年間この作品を雑誌で追い続けたことになりますね。
時が経つのは早いものです……。

痛みを伴わない教訓には意義がない
人は何かの犠牲なしに何も得る事などできないのだから

娯楽作品のモティーフとして扱うには極めて重責であるこの命題に対し、
錬金術師の兄弟による痛快な旅を通して答え続けたこの物語は、
読者を長い間引き付けてくれました。

そして最後まで妥協することなく、このような傑作を描ききった、
原作者の荒川弘さんの手腕と信念は、言葉で言い尽くせません。

9年間、本当にお疲れ様でした。感無量です。

〈論説〉藤野もやむ作品における、ファンタジーというエッセンスと自己同一性拡散・統合の問題との連関についての考察

 『ナイトメア☆チルドレン』『まいんどりーむ』『はこぶね白書』など、メルヘンティックな意匠を湛える藤野もやむの作品において、ファンタジーというガジェットがその物語の中核に据えられる場合、登場人物のアイデンティティにおける問題と密接に連関してくる。本稿では、その関係性について考察することにした。

※ この記事には、以下の作品の核心部分に関する記述があります。

 『まいんどりーむ』藤野もやむ エニックス
 ナイトメア☆チルドレン(〃)
 賢者の長き不在(〃 マッグガーデン
 はこぶね白書(〃)
 『忘却のクレイドル』(〃)

目次

本論
§1 登場人物の自己同一性とファンタジーという他者
 §1-1 物語における、登場人物の自己同一性の拡散と統合
 §1-2 他者としてのファンタジーと、虚構による寓意性
 §1-3 自己同一性の拡散と統合、その互恵性
§2 自己同一性と社会イデオロギーとの連関性
 §2-1 存在意義を「日常」(環境)という社会イデオロギーに委ねる登場人物達
 §2-2 日常のクライシス――存在意義の喪失、境界の侵犯と崩壊、ロゴスの不在
総括



本論

§1 登場人物の自己同一性とファンタジーという他者

§1-1 物語における、登場人物の自己同一性の拡散と統合

 人は、自分が自分であると自己認識するには、経験(セルフ・データベース)からその同一性を見出す。また、他者を他者と認識するには、自身の経験からその類型を想起して、その印象(イメージ)を相手に投影して、それが何であるかを理解する。そこから人は、自己と他者の分別をつけるのだ。
 これは虚構の物語(フィクション)でも同様である。作中の登場人物の一人に焦点を当ててみて、それと対峙する他者が現れたとしよう。
 先程私は、自己認識のプロセスについて「経験からその同一性を見出す」と述べた。そして、他者を認識するには「自身の経験からその類型を探し出して〜」とも述べた。即ち他者を理解しようとするときに受ける印象というのは、自身の性質が反映されるということになる。

 それでは、自己にとって都合の悪い部分が相手の表層にあったとしよう。例えばトラウマ、例えば自分の醜い、浅ましい、卑しいところ。その場合はそれらが想起される訳であるから、そうすると当然不快感が生まれる。そのとき、自我はその同一性を揺さぶることになるのだ。
 またこのような現象は、未知のものに遭遇したときも起こり得る。自分の経験で判別ができないとされたものに対して、人は不安を覚えるものだ。このときも前者と同様に、その自己の同一性は、揺り動かされるのである。
 これらの現象を自己同一性の拡散として、このような経験を物語の主人公は幾度となく経験して、「自分とは何なのか」という存在意義(レーゾンデートル)を熟考し、最終的に導き出すのだ。これが自己同一性の統合である。

 そしてこのことこそが、他者は自己の鏡であると言われる所以だ。他者との出会いが、自己を見つめ直す切欠となる。そこに「物語」は生まれるのである。
 この図式は、当然藤野もやむの著作にも適用されているのであるが、ここで問題とするべきは、そのドラマツルギーである。彼女の作品において、その他者と自己同一性の拡散という問題が、いかなる形で表現されているのか。それを次の項で述懐しよう。



§1-2 他者としてのファンタジーと、虚構による寓意性

 本題に入る前に、まず「フィクション」や「ファンタジー」といった言葉について、少々説明をしよう。
 フィクションとは、概念が抽出されて具現化された様態である。これをより、非現実的な現象で表したものをここではファンタジーと定義しよう。
 説話の類いを例に挙げるまでもないが、古くから人は抽象的な観念に対して、幻想的な形態を与えて寓意化してきたものだ。そしてそのようなガジェットが積極的に採用されているのが、藤野もやむの著作なのである。

 ファンタジーが非日常と他者性を象徴しているものとして、自己とそれとの関係が最も単純なケースは、『まいんどりーむ』であろう。ユメと称される内的世界というファンタジーの中で、またその象徴であるミリートという他者と出会い、自己を省みる。この構造は、まさしく前項で述べた認識のプロセスそのものだ。
 また前項で私は「他者は鏡である」と述べたが、他者性を持ち合わせるものは、必ずしも自分と同様の自我を持ち合わせるものだけとは限らない。本作中の登場人物である坂下舞子の、ユメの中で登場した角のある兎と、それに対して舞子が抱く恐怖などはその好例だ。この関係は、彼女の他者に対する恐怖が寓意化されたものである。
 そしてそれを克服するには、対象の理解へ努めるより他はない。このユメという世界は中でミリートが述べているように、主体の観念が具現化された世界なのである。従って、主体が対象を理解するには、まず投影するイメージを想起しようと「意志」することが求められる。それが願望だ。
 内的世界への自閉という桎梏から解放されるには、他者との関わりの中で自己を省みるより他はないということを、この物語(フィクション)は童話的(メルヘンティック)な様相を以って、寓意しているのである。

 このような願望の投影といった認知バイアスが、その観念自体で現実に作用を起こすといったシステムは、『ナイトメア☆チルドレン』や『はこぶね白書』でも物語の中核として絡んでくる。ナイトメアやぐるぐるへびといった、願望を現実に投影して干渉を加えるというガジェットは、主体の存在意義を経験へ依拠させて、恣意するままに具現化させてくれる、甘美な内的世界へと自己を誘うのだ。
 ここで括目するべきは、そうした現象を引き起こすファンタジーもまた、自我がある主体であるということだ。ミリート、ナイトメア(ソドモ)、ぐるぐるへび、彼らは、相手の精神に干渉を加えることで、自分自身の自己同一性も同時に揺らがされているのである。



§1-3 自己同一性の拡散と統合、その互恵性

 この例として、最も分かりやすい事例がミリートであろう。和泉さやかやケンのケースから鑑みるに、ミリートはユメに迷い込んだ人と接することで、彼女自身も知らない概念を会得したり、何かに気付かされたりして成長していくことが、作中で明確に描写されている。
 このような現象はナイトメアやぐるぐるへびなどでも、同様のことが言えるだろう。超自然現象のように見えるナイトメアは、邪眼(イーヴル・アイ)という能力を持った少年ソドモという主人格があり、またさらに観念的な様相を呈しているぐるぐるへびも、自我のある存在であることが、物語のクライマックスで判明する。
 ナイトメアにぐるぐるへび。いずれも単なる思念にすぎない願望を、現実に対して唯物論的なプロセスを経ることなく、短絡的に反映させる能力を持ち合わせている。しかし果たして、そのような機能は自己同一性の拡散という問題において、何を寓意しているのか。それは、ぐるぐるへびの「閉じ込める」という観念から考えると見えてくるものがある。

 この「閉じ込める」とは、どういうことなのか。それは即ち、存在を抹消するということ。現実に在るものを「喪失」させることだ。自己同一性の拡散において考えられることのできる要因のうちで、極めて純粋な形相を成しているのが、喪失なのである。
 それでは、「閉じ込める」という機能と自己との連関は、何を志向するのか。
 私は前の項で、「主体の存在意義を経験へ依拠させて、恣意するままに具現化させてくれる、甘美な内的世界へと自己を誘う」と述べた。しかしそれは、相模左甫が現実世界から自己を喪失させることを願望していることから分かるように、その極致に在るのは自身の消滅である。
 即ち、内的世界に永遠にとどまっていたいという願望の極致は、「死」だ。これは、人間が欲望の赴くままに幻想を生み出すことができるようになる代わりに、そのまま自閉へと没頭し続けると最終的には死を迎えるという代償を背負う、ナイトメアの憑依現象からも同様のことが言える。
 従って、こうしたファンタジーな機能と登場人物の自己との関連性は、自己同一性の拡散が最終的に行き着くところが死であることを、寓意していると考えられるのだ。

 このように自己同一性が拡散した状態から、また統合し直すには、自我の鏡である他者との接触が欠かせない。
 この好例として、福田ねこ、相模左甫、ぐるぐるへびの三者間におけるパースペクティブから鑑みよう。彼らはクライマックスで、現在に至るまでのおのおのの因果関係を知ることで、自己存在を確認することができたのだ。
 フネはぐるぐるへびに対して「あなたは「ぐるぐるへび」じゃない」と告げ、自分がこの学園に来た真実を知る。そうしてこの三者を繋ぐ因果を、次のように総括した。

「……愛
 ……そうか …あのひと 佐甫くんに消えてほしくなかったのかも
 だから私はここにいて 佐甫くんを愛しちゃってるのかも!!」

はこぶね白書 第7巻 P.P. 115〜118 福田ねこ

 彼らはこの邂逅において、自己の存在意義を再確認し、各々の互恵性を確かめることができたのである。

 このような自我同士の接触による互恵性は、人間関係を構築するにおいて規定となる観念であるが、その様相を寓意するのがフィクションだ。そうして、その虚構の物語の中で描かれる超現実性に、我々と同じような人格性を湛えていることを認めるところに、登場人物間における自己同一性の拡散と統合は、読者へ認識される。
 そしてこうしたファンタジーの存在は、人間関係の中で構築されるイデオロギーの構造、そのものに迫っているのだ。


§2 自己同一性と社会イデオロギーとの連関性

§2-1 存在意義を「日常」(環境)という社会イデオロギーに委ねる登場人物達

 自己同一性の拡散は、自己の存在意義を委ねているものの喪失から始まる。従って、自己(主体)と社会の相関性と同一性の問題については、その主体が何に存在意義を委ねているのかを考えなければならない。
 主体が自己の同一性を委ねるもの、それは「日常」というイデオロギーである。
 ここでいう日常とは、主体にとって平静な状態で過ごせる環境のことを指す。即ち、自身の同一性が統合することのできる時間・空間(=環境)が日常なのである。
 ここで他者と接触による、自己同一性拡散についてもう一度述懐してみたい。私は大セクション1の小セクション1で、自分の欠点が表面に現れているもの、未知のものに対して、人は自己同一性の拡散を起こすと述べた。このような事柄に遭遇して、人は不安な気持ちに苛まれるのは、平穏無事でいられる「日常を喪失」するからである。

 日常という定義を上述のように想定すると、当然その反定義である「非日常」も当然存在する。この非日常は、今迄の話を鑑みるに他者との接触のことと見ていいだろう。そしてこの「他者性=非日常性」を象徴しているのが、ファンタジーなのである。
 ナイトメアなどは、まさにその好例といえよう。大切に想える人がいて、その人がいるから、自分の存在意義を自己確認できる。自己の同一性が保障できる。それがその人にとっての日常。――しかし、その日常はいずれ喪われる。そうした日常を喪った人に取り憑いて、日常を永遠に奪っていくのがナイトメアだ。即ち、死へ。
 このことから考えなくてはならないのは、自分だけは平穏無事でいたいという日常という前提が、如何にして脆弱で、身勝手であるかということだ。
 このような思念が集合化すると、それは極めてパワーのある社会イデオロギーへと変貌する。そこから結びつくのが排他であり、差別はその最も純粋足る形相だ。他者を蔑み、退けて、自己と向かい合うことなく、存在意義を確保するという保障行為。その基底こそ日常という、曖昧模糊としていて且つ極めて主観的なイデオロギーなのである。

 日常というイデオロギーは、仮初のものである。このことは、『ナイトメア☆チルドレン』をはじめ、藤野もやむの作品では一貫して主張されている命題であるのだ。

§2-2 日常のクライシス――存在意義の喪失、境界の侵犯と崩壊、ロゴスの不在
 ここで日常という観念をもう少し掘り下げてみるために、藤野の作品を振り返ってみる。
 彼女の著作のうち、ファンタジーが物語上のキーポイントとなるものを執筆順に追っていくと、後年の作品へなるに連れて、そのイデオロギーが確固とした自律性を備えていくことが分かる。即ち、独自の社会形態が確率するということだ。

 例えば『まいんどりーむ』では、今我々が住んでいる現実世界とミリートと邂逅するユメとで、二つの現象界が存在する。しかしユメの世界とはいえ、その現実世界にいる個々人の内的世界があって、初めて存在し得るといえるので、その自律性は皆無といえよう。
 しかし『ナイトメア☆チルドレン』では、邪眼を持っている人間の集団と、そうでない者の集団とにおいて、イデオローグの対立が描写されていることから、双方に自律した社会イデオロギーが成立していることが分かる。
 『賢者の長き不在』では、そのイデオローグが国家を形成するまでに発展する。作中で描かれる精霊の住まう世界は、まつり達の住む現実世界との間に相互認知はなく、社会イデオロギーの対立もない。しかしこの世界にあるティルテュ国は、我々の住む世界と比べても遜色のない程度の社会システムが形成されている。
 このような社会イデオロギーが自律して形成されているということは、各々の領域に住むそれぞれの主体にとって、「日常」という観念が形成されるということだ。そして、その二世界の境界が、いずれかの主体が他方へ介入することによって曖昧になり、それぞれの各個人のアイデンティティに影響を与えるのである。

 ファンタジーと現実との二者の境界と、主体による他方への侵犯という問題は、『はこぶね白書』によってより深化されて描かれているだろう。この作品では、外界につながる電話や、抜けようと思えば抜け出せる結界、フネの脱走と帰還、忍者という特異な存在など、フネの住む現実と化アニマル界という、その境界自体が無効であるかのようなシークエンスが成されている。
 ここで特にフィーチャーしたいのは、フネが「自分が学校にいることに対する意義の喪失」を動機とした脱走と、そして帰還までのドラマツルギーだ。彼女は無我夢中で学園の結界から抜け出し、公共機関を使って一旦かつての日常であった故郷に帰る。しかし、そこで後を追ってきた狐タ郎に出会い、学園での自己と他者との関係性から、これまで「非日常であった学校での生活に日常を感じ」、帰還を決断した。
 このシークエンスから、如何に「日常」という観念が疑わしいものであるかを推し量ることができるだろう。また日常と非日常という境界が、如何に脆弱であるかをはっきりと示したエピソードなのだ。

 ここまでくれば、その日常という観念が主観的なものであるかが、明瞭に成ってきたであろう。自分にとっての日常は、違う領域に住む他者にとっての非日常なのである。日常を押し付け合うことは排他と同一なのだ。
 それでは、社会イデオロギーとしての日常を形成するのは何か。それはコミュニティであり、その根底を成すのは国家である。
 通常、個人と政治の間には、コミュニティという社会性が介在するものである。国家は通常、「個人―社会(各コミュニティ)―政治(権力)」という図式で成り立っている。しかし、各コミュニティのトップである精霊(マスター)との契約という形で、政治的権力を得るまでのプロセスを短絡化させているのが、『賢者の長き不在』で描かれるティルテュ国王の継承儀式なのだ。

 この短絡性を強調しているのが、現実世界の子供達が精霊達と契約していく、その経緯だ。まつり、豊、阿佐美、也人、彼らは皆、自分の存在意義を他者に委ねている。そのような依存する心を持った状態で精霊と契約することで、彼らは心の隙間を埋めようとする。
 このような今自分が不満を抱く日常から逸脱し、新たな日常を求めようとする心が、社会的権力と繋がっていくのは、非常に危険なことだ。そうした不安定な信頼関係でなりたっていた彼らのうち、一番情緒不安定であった豊はツカネにいいように利用されて、ヴァルム達に刃を向けてしまったことが、そのアンバランスなイデオロギーの恐ろしさをよく表している。
 この物語は、自分の求める日常へしがみつく子供の未熟性(願望・依存)という危うさが主題にあるが、そのシークエンスからは「主体―権力」という相関性が抱いている、根本的な問題が象徴されていると推測できる。

 それでは日常という観念の起源はなんなのであろうか。それについては、この『賢者の長き不在』というタイトルが暗に示している。
 賢者というのは、ユング心理学の核となる概念である、集合的無意識を形成するための数ある原型(アーキタイプ archetype)のうちの一つ、ワイズマン(Wiseman)に相当する。これは、父権的な選択的精神原理(ロゴス logos)を司る原型だ。従って、「賢者の不在」というのは、「父性及び理性の不在」と考えてよい。
 そして日常において父性が喪失するということは、日常の期限を司る原型が台頭し、主体を支配することになる。即ち、母性(グレート・マザー Great Mother)だ。
 ユング心理学で言うところのグレート・マザーは、母権的な受容的生命原理(エロス Eros)を象徴する。要するに、感性や情緒といった感覚的な観念を司る原型だ。これはワイズマンの対極に当たる原型とされ、これら二者が均衡を保つことによって、人間は自我の統合性が安定する。
 従って、ワイズマンが喪失をしてグレードマザーが放縦してしまうということは、その極致に自己の統合性の欠如、思考停止及び判断停止が待ち構えているということだ。

 前項で私は、日常にしがみつくことを排他と呼んだ。そこには、他者を理解しようとする思考能力の停止があると考えられる。それを判断停止とするならば、その根源にあるのはグレート・マザーといえよう。それを潔しとしない藤野もやむの作品は、それらに一貫した命題を、母性依存の否定と推し量ることができるのだ。
 この問題については、大セクション1の3で取り上げた『はこぶね白書』における、相模左甫とぐるぐるへびのエピソードが、その本質をよく描いている。
 その特殊な環境下で自己を見失っていった左甫は、日常の象徴である母を求めた。その末に彼は、ぐるぐるへびと出会った。何故、左甫はぐるぐるへびに惹かれたのだろう。そして何故、ぐるぐるへびは左甫を保護したのか。
 それは、フネの「お母さんみたい」という感想に集約されている。自分が目に掛けた個人に対して、その日常を保障してくれるぐるぐるへびは、グレート・マザーの表象といえるだろう。そしてぐるぐるへびはその手段として、他者の日常を強制的に喪失させる力を持っている。それは個人の記憶などの観念的なことから、生理現象などの物質的なことまで。さらには、高校入学などといった未来までも操作してしまうほどだ。それは、精霊の能力や邪眼などの比ではないほどに、強烈で暴力的である。

 日常という曖昧模糊としていて脆弱な観念、またそれが備える排他性・暴力性、その根源にある母性へ依存するアイデンティティの弱さ。そうした命題を、ファンタジーという寓意を用いて批判し続けているのが、藤野もやむの著作なのである。『はこぶね白書』は、その透徹した概念に対する、一つのアウフヘーベンとして見ることができるのだ。


総轄

 主体による他者の理解という認知バイアスの構造が招く、自己同一性の拡散・統合の問題は、物語という形で寓意化される。ファンタジーとは、その表象であるのだ。
 自己が他者との関わりのなかで生きていくというパースペクティブ(構造論)を、日常というイデオロギーをレゾンデートルとする脆弱性と危険性への警鐘という観点から、ナイトメアや夢、精霊や化アニマルといった幻想的なガジェットを以って紡がれる物語。これこそが、藤野もやむの描くファンタジーに透徹する、哲学的命題であると私は本稿を執筆して確信に至った。

 そして、そのようなアポリア(難問)に挑もうとする姿勢は、現在連載中の『忘却のクレイドル』でもひしひしと感じ受けることができる。
 孤島での特殊訓練を義務付けられた子供たち。彼らは、自分達の生活とは埒外だと思っていた戦争の色をここで感じて、日常という基底自体に疑念を抱き始める。そして、その蟠りに対する一つのテーゼが、余りにも激烈な形で子供達の前に提示された。眠りから覚めると島が廃墟と化していたという事実によって、いよいよ日常という観念そのものが粉々に打ち砕かれてしまう。
 揺り篭(クレイドル cradle)の名を冠する孤島。揺り篭とは日常の起源にして、母性の象徴だ。それを忘却するということは、「母性=日常」を廃棄するということなのか。

 彼女が紡ぐ物語の中に透徹した、自己同一性と他者との関係性(社会イデオロギー)における問題は、この極端なまでにドラスティックな様相を湛えた物語を以って、新たな局面を迎えようとしているのだ。今後とも彼女は、熱心な読者を釘付けにして止まないことだろう。

参考文献・リンク

「おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』」
―「第13回 はこぶね白書
http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/comic/013.html

これがマンガ専門店というものか……

昨日の夜、たかひろさんのお願いを承って、
新宿のCOMIC ZINと池袋のゲーマーズという、
マンガ・アニメなどポップ・カルチャーの専門ショップまで行ってきました。

目的は『がんばれ!消えるな!!色素薄子さん』(水月とーこ 一迅社 刊)
というマンガの新刊(2巻)を買ってくること。
今なら対象店舗で買うと、特典がついてくるというフェアを開催しているのです。

私はマンガ・アニメを専門としたお店には、普段余り行きません。
それは新刊を買うときも、芳林堂や須原屋などの普通の書店か、
あるいは通学途中にあるBOOK EXPRESSなどで事足りるからなんですね。
だからこういうところに行く機会はたまにしかないので、
普通の書店との違いや、そうしたお店独自の創意工夫などに触れてみると、
新鮮な気持ちで楽しめることが多いです。

特にCOMIC ZINは、なかなか面白かったですね。
ここはマンガやライトノベル、同人誌などといったポップ・カルチャーの内、
主に書籍を取り扱っているお店だからなのか、
前述のゲーマーズや、この界隈では最著名であるアニメイトのような店舗とは、
また違った工夫に触れることができました。

まず驚いたのは、1巻目を試し読みできる作品がかなり多いということ。
最近ではTSUTAYAなどの普通の書店でも、
アニメ化やドラマ化されているようなメジャー作品の第1巻を、
試し読みできるようになっている書店も多いですが、
少しマイナーな部類に入る作品となると、
そのようなサービスを提供しているところは、そんなにはありません。

それでもアフタヌーンとか出版社が大手のところで、
メディアミックスがなくても圧倒的な評判の作品とかならば、
マイナーなものでも試し読みを行っている書店(LIBROとか)もありますが、
いわゆる電撃・メディアワークス系やエースなどの角川系、
きららなどの萌え4コマ系、スクエニ系、ブレイドゼロサム、REXとなると、
コミックスが試し読みできる機会というのはなかなか少ない。
これは、アニメイトとらのあなのような専門店でさえ同様です。

しかし、このZINはそうしたマンガでもかなり数のタイトルが、
第1巻を全部、あるいは途中まで試し読みできるのです。それも平済みで。
その中には、ネットでも殆ど取り扱われないような作品もありました。

またこのようなお店だと、
発売記念のディスプレイやPOP広告などといった、作品を推薦・宣伝するための、
凝りに凝った創意工夫が施されることが、よくあるのですね。
これは一般の書店でも行っていることで、
このような努力は店側からの熱い応援と豊かな知性を感じられます。

いずれにしてもこれらはかなり面白い試みだな、と思いました。
ネットでも取り上げられないような作品となると、
BOOK OFFや古本市場などの新古書店にもないケースも多いですから、
こうしたところで本当に良質な作品が、
消費者の目に向けさせる機会に恵まれるというのは、
実に有意義であると思うのですよ。

それと店員の方による、作品に対する愛を感じます。
前に私がblogでも記事を書いた『ロゼッタからの招待状』が、
本編からキャプチャした画像付きの
推薦メッセージ付きで宣伝されていたのには、
素直に嬉しかったですね。

出口付近にはお客様のご意見ノートなんかもあって、
これもかなり面白かったです。
全体的にとても好感触だったので、
また行ける機会があれば立ち寄ってみたいな、と思いました。
(ただ、途中下車してそれなりに歩くのはちょっと辛い……)

わかつきめぐみさんの『黄昏時鼎談』が素晴らしい

先日、
わかつきめぐみさん(昔、花とゆめで『So What?』とか描いていた人です)の
黄昏時鼎談』という短編集を買ったのですが、
これに収録されている一篇一篇が実に素晴らしかったです。

この人の特徴は、まずなんといってもその作画ですね。
繊細な描線とトーン使いから紡がれる、光を含んだような表現。
それらがとにかく柔らかなイメージを与え、
緩やかな雰囲気が読者を包み込んでくれます。
内容もそれに準じたものが多く、
読後感は非常に爽やかな優しさを覚えるようなものが殆どですね。
時には、どろどろとした微妙な感情など、人間の負の側面が扱われるのですが、
それを露骨に描写しないのです。
そういったものを否定せず、優しい雰囲気と真摯な態度でそれを受け入れ、
それぞれが幸福を認識して日常に戻るのが、彼女の作風です。
独創性が高い話が多いのも、わかつきさんの特徴です。
これに収録されている中では、『Earth Blue』や『くちなしの香る頃』、
黄昏時鼎談』の各話などが最も足るものですね。

まあそんな感じで、
基本的にはわかつきさんの基本的な作風を準じたものばかりなのですが、
一部だけ暗い影を後に残すようなものがあって、それが印象に残りました。

(ここから、ネタバレ。注意されたし)

まずは『彼女の瞳』という短編です。

旅人が森の中で迷ってしまい、ようやくのことで一軒の小屋に辿り着きました。
そこに住んでいたのは、薬師の青年と両方の眼窩に包帯を巻いている女の子で、
旅人は頼み込んでそこに泊まることにします。
旅人は鈴を持っていました。
女の子はそれを気に入ってくれて、旅人は彼女にそれをあげることにします。
彼女は笑顔で、「ありがとう」と返してくれました。
夜中、ふと聞こえてくる水音に目を覚ました旅人が水場に向かうと、
そこには女の子が包帯を外して顔を洗っていました。
女の子と目が合った瞬間、旅人は激しい苦しさを覚え、
彼女は自室に駆け戻ってしまいました。

女の子は人に死をもたらしてしまう「邪視」を持っていたのです。

薬師の青年の方は、調剤を間違えて人を死なせたことで、
街を追われて山に逃げ込んだ末、ここまで辿り着きました。
そこで女の子と会ったのです。
彼は、その罪滅ぼしではないけれど、どうにかして彼女の邪視を治せないかと、
この小屋で力を尽くしていたのです。

朝になり、旅人は宿に別れを告げました。
旅に戻り、それからずっとあの女の子のことと、
薬師の青年のことを考えていました。

そして、女の子がくれたあのときの笑顔が、
いつまでも頭から離れなかったのです。

このような「視線が人に影響を与える」という伝承や信仰は
、古くから様々な地域で伝えられていて、
特に人に害を与えるものを「邪視」と呼ばれます。
その邪視だとされた人への偏見や差別、
それをモチーフした悲劇的なストーリーを組む物語は数多くありますが、
この作品はその中でも秀逸な一品に入ると思います。
それから、女の子の瞳が淡く綺麗に描かれているのも、
一層ペーソス(悲哀)さが強められている印象があって、
ひどく切ないものを想起させられました。
薬師の青年の事情も、生々しいものを感じますね。
このようなことはいつの時代でも、医療に携わる者には付きまとう危険ですが、
それに対する責任や心情をしっかりと描いていると思えます。

わかつきさんの作品は、基本的に読後感がすっきりしたものが多いのですが
、これは確実に暗い影を読んだ後に残します。
重く、切なく、辛く、彼女の作品のなかでは珍しいタイプの一篇でした。

暗い影、といったら別の収録作品である『blue3』も当て嵌りますね。

これは主人公がとある飼い犬の話で、飼い主である女の子に恋をしています。
だけど自分は犬だから想いも伝えられず、見ているだけしかできない。
寿命も人間より短いから、女の子よりは先に死んでしまう。
それでも、短い間だけれど、
「一緒に過ごしている」という幸せを噛み締めたい――。
山場までとラストでは、
わかつきさん特有の柔らかく優しい雰囲気に包まれているものの、
主人公の切なく辛い想いが前面に描写されているシーンが終盤にあり、
これにはひどく感傷的にさせられるものがありました。

切ないというと、最後に収録されている『ONE WAY』もそうですね。

とある夫婦のお話。奥さんは、身体が弱くて寝たり起きたりの生活でした。
そんなある夜、旦那さんは突然光臨してきた精霊に、

「この婦人はこれから、人並みの生活を送る事はできず、 二人とも苦しい日々を強いられるだろう。今ならこの場で楽に死なせてあげることもできるが、どうする?」

と、選択を迫られます。
しかし、「それでも、何があっても、そばに居たい。」と旦那さんは言いました。

それから30年。奥さんは案の定、これまで入退院を繰り替えし、
旦那さんはその介護をする生活をしてきました。
それで、旦那さんは奥さんを苦しめてしまったのではないかと悔やみ、
「自分の選択は正しかったのか?」と、ずっと煩悶してきたのです。

しかし奥さんは、「それでも一緒に暮らしてこれて、幸せでした」と、
旦那さんに言いました。

現実のこの国でも、配偶者の介護で苦しんでいる人が沢山います。
それが原因で起こる悲劇、そうしたことが連日のように聞かされますね。
そんな現状だからこそか、私はこの一篇に対して、
深く考えさせられるものを覚えました。

最後の桜が舞っているシーンは、何とも言えない寂寥と感傷を覚えます。

  
さて。つらつらと書いていたら、
当初の予定よりかなり長くなってしまいました(^^;
まあそんな感じで、全篇に渡って素晴らしい作品が詰まった短編集です。
新書で手に入れるのは難しいと思いますが、
古本屋とかなら運がよければ置いてあると思うので、興味がある方はどうぞ。

今期のスクエニアニメは果たして

4月期のアニメも、始まってから1ヶ月近くが経とうとしています。
そこで、今期のスクウェア・エニックス系列(以下、スクエニ)の雑誌に
連載されている作品を原作としたアニメ4本について、
私の雑感をお話したいと思います。
また以下の記事では、声優や作画、脚本構成など、
アニメ特有の項目に重点を置いています。
ストーリーについては、説明を結構省いているものがあるので、
そのことをご留意の上でお読み下さい。


まず、これは説明不要でしょう。『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST
オリジナル展開が中心であった前シリーズを踏まえ、
原作に沿うことをモットーにして再アニメ化したものです。

今回はスタッフも声優も(一部メインキャラクター除く)一新されて、
作画も前作の雰囲気とは大幅に変わりました。
展開は、原作のテンポや軽快さを忠実に再現していて、これはかなりの好印象です。
ただ、作画がかなりあっさりとしたものになってしまい、
ストーリーも少し端折っているところもあって、
重厚さが今ひとつ感じられなくなってしまったのは、少し残念です。
ここがどうしても違和感を覚えてしまいます。
これは慣れもありますから、もう少し様子見が必要かな。
とりあえず、及第点はいっていると思いますので、
これから良くなっていくことを期待します。
 

それから、あの『SCHOOL RAMBLE』(マガジン・講談社 刊)の小林尽
ガンガンJOKER(旧・ガンガンWING)で連載中の『夏のあらし!
戦前から時を越える能力を以ってやってきた少女と
パートナーである現代の少年が廻る、ノスタルジックなひと夏の物語。

原作者が有名なのと、監督を務めたのが個性派と名高い新房昭弘氏で、
アニメ化前は少し話題を呼びました。
さて、肝心の出来具合なのですが……、正直なところ結構違和感があります。
原作の作画は、少年漫画的で割りと濃い画風であるのですが、
必要以上の描き込みがされておらず端整に仕上がっていて、
癖が少ないものになっております。
しかしアニメでは、キャラクターデザインが、
それとは結構違うものになっているのです。
男のキャラは原作に忠実に描かれているのですが、
女の子の顔つきはパーツが全体的に縦に長く配置され、
ひどくシャープな印象を与えるものになって、違和感を覚えるものがありました。
また、明暗のコントラストが激しく、
所謂アニメ塗りを徹しているような色使いです。
これも、個人的には今ひとつなのですよ。
原作だと陰影の処理は、縦線を描くことが多いのです。
このような表現は画面に少し掠れた印象与え、
鄙びた舞台とノスタルジックな内容にマッチするので、
その雰囲気をどうにかアニメでも再現して欲しかったのですが……。
おまけに、主題歌が有り得ないぐらいアングラ・イロモノ指向で、
これも原作の雰囲気と乖離した感じで、かなり微妙です。
まとめますと、全体的に演出が空回りしているイメージが強く、
2話目までは結構期待を裏切られた感じでした。

しかし3話目になって、ある程度シリアスなシーンになってから、
ようやくこれは「良く描けている」と思えました。
臨場感や切迫した空気が伝わるような演出がきちんとなされていて、
なかなかに良かったです。
それと、脚本の構成も巧くなったように思えます。
1・2話は原作のエピソードを詰め込んだ上に、
コメディシーンのドタバタが強調されてかなり忙しなく、
話に入り込み難い印象だったのですが、
3話目は過不足なくしっかりと話が繋がっていました。
出だしは今ひとつだったけれど、これからに期待したいです。

余談。エンドカード(番組の最後に表示される一枚絵)は
スクエニ系作家の方々から、寄せられた描き下ろしイラストです。
これまでに描かれた人は、氷川へきるさん、方條ゆとりさん、介錯さん。


ここから、原作未読のアニメです。


さて次は、Gファンタジーで連載中の
ゴシック及びメルヘン的要素を含んだダークファンタジー、『Pandora Hearts

まず作画ですが、細い描線ながらもきっちりと描かれて、
これは中々いい感じです。
キャラクターデザインも、原作の絵からは離れているようですが、
作画と同様に安定感があるのは好印象。
ストーリー展開は、少し分かり難いところはあるものの、
そこまで悪い構成ではありません。
しかし、演出や描写については、ひどく難があります。
全体を通して、とにかく迫力がない。
コントラストは緩やかなのですが、
この作品の場合はそれが逆に仇になっているように思えます。
このため作品の肝であろう、ゴシックの煌びやかさ・荘厳さ、
及びメルヘンの幻想感・不気味さが薄らいで見えるのです。
内容は、
おどろおどろしい雰囲気や心の闇を強く象徴するようなシーンが多いのですが、
そこで引き込まれないのはかなりの問題です。
そして、4話目にもなって余り改善が見受けられないのも、少々厳しい。
観ていくと違和感は少し薄らいでいきましたが、
これは単なる「慣れ」であるように思えます。
このままだと特に話題にならず終わってしまいそうで、かなり不安な状況です。


最後は、ヤングガンガンで連載中の学園麻雀漫画、『咲 -saki-
メインキャラクターの女子高生達が、部活動と言う形で麻雀を通して、
それぞれの想いと抱えながら葛藤を重ねて成長していくという、
どちらかというと
「スポーツ漫画」などに近い構成になっている内容が話題を呼んだ作品です。

原作の画風は知っていて、
キャラクターデザインがそれとは多少の差異があったのが少々不安でしたが、
蓋を開けてみると、結構良い感じでした。
作画は非常に安定しており、且つ各キャラクターも良く動き、
その個性を表していると思えます。
脚本も早すぎず遅すぎずきちんと構成されています。
肝となる麻雀シーンもじつに良く描けています。
一部派手な演出もありましたが、この程度なら全然問題はないでしょう。
少し初心者を置き去りにしないかが心配ですが、
この内容ならストーリーやキャラクターで引っ張っていけると思えますので、
この点ではむしろ従来のギャンブルや裏社会的要素の強い麻雀漫画よりも、
入り込みやすいのではないかと考えられます。


それでは長くなりました。
出だしが様々なスクエニアニメですが、これからも期待していきたいと思います。

ガンガンJOKER創刊に想う

スクウェア・エニックスの出版部門では、新雑誌ガンガンJOKERの創刊に伴い、
ガンガン系列である、ガンガンパワードガンガンWINGが解体されて、
作品の異動が慌しく行なわれています。
しかし、このガンガンJOKER
ラインナップを見るにクオリティは高いと思われるのですが、
私の趣向とは違うもので購読までには至らないでしょう。

当誌の掲載作品は、私の求めるような、
ペーソス感(哀愁)とパセティック(悲壮性)、そしてリリシズム(叙情的傾向)には
当て嵌まらないものが多いのではないかと思えるのです。
さらには哲学的思想性・叙情性とはかなり異なるのではないかと。
それでも、「夏のあらし!」や「文学少女」、小島あきらさん、
藤原ここあさんあたりはそうした点で期待できるけれど……。
私は現在、「月刊少年ガンガン」と「コミックブレイドブラウニー」(マッグガーデン
の2誌を購読している状態なので、
これ以上購読することは金銭的にも厳しいし、
そこまでするには二の足を踏んでしまいます。

そこで思ったことなのですが、私の場合自分の好みを純粋に抽出したら、
どのような作風が当て嵌まるのでしょう。
とあるマンガレビューサイトの管理人さんの文章に準えてみると……、

「哲学的社会思想性とビルドゥングスロマン性と郷愁・叙情・寂寥・哀愁・無常など切なく儚いけれどほんのり優しいペーソス系の交差点上にある、ドラスティック(深刻性)でシビアだけれど、普遍的で懐が広く、他者を『理解』しようと『信じる』こと」が生きる糧。

って感じかなあ。
固有名詞で具体的に挙げてみると、

「お家騒動以前のエニックス的なものと、アフタヌーンIKKIなど漫画読みが好みそうなタイプと、ジュブナイルとの、ボーダーラインをふらふら彷徨っている」

といった感じですかね(笑)
しかし頑張って探しても、
このタイプの作品はなかなかジャストミートと呼べるものがなかなかないのです。
こうしたタイプで、私を心から酔わせるに至るものは作家でいえば……、
鬼頭莫宏さん、冬目景さん、藤野もやむさん、わかつきめぐみさんあたりかな……。

ああやっぱりこう、「新創刊」とかいう話を聞く度に、
自分で雑誌を創刊したくなります(^^;