旅人の手記 三冊目 ‐ 蝉海のブログ -

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〈論説〉藤野もやむ作品における、ファンタジーというエッセンスと自己同一性拡散・統合の問題との連関についての考察

 『ナイトメア☆チルドレン』『まいんどりーむ』『はこぶね白書』など、メルヘンティックな意匠を湛える藤野もやむの作品において、ファンタジーというガジェットがその物語の中核に据えられる場合、登場人物のアイデンティティにおける問題と密接に連関してくる。本稿では、その関係性について考察することにした。

※ この記事には、以下の作品の核心部分に関する記述があります。

 『まいんどりーむ』藤野もやむ エニックス
 ナイトメア☆チルドレン(〃)
 賢者の長き不在(〃 マッグガーデン
 はこぶね白書(〃)
 『忘却のクレイドル』(〃)

目次

本論
§1 登場人物の自己同一性とファンタジーという他者
 §1-1 物語における、登場人物の自己同一性の拡散と統合
 §1-2 他者としてのファンタジーと、虚構による寓意性
 §1-3 自己同一性の拡散と統合、その互恵性
§2 自己同一性と社会イデオロギーとの連関性
 §2-1 存在意義を「日常」(環境)という社会イデオロギーに委ねる登場人物達
 §2-2 日常のクライシス――存在意義の喪失、境界の侵犯と崩壊、ロゴスの不在
総括



本論

§1 登場人物の自己同一性とファンタジーという他者

§1-1 物語における、登場人物の自己同一性の拡散と統合

 人は、自分が自分であると自己認識するには、経験(セルフ・データベース)からその同一性を見出す。また、他者を他者と認識するには、自身の経験からその類型を想起して、その印象(イメージ)を相手に投影して、それが何であるかを理解する。そこから人は、自己と他者の分別をつけるのだ。
 これは虚構の物語(フィクション)でも同様である。作中の登場人物の一人に焦点を当ててみて、それと対峙する他者が現れたとしよう。
 先程私は、自己認識のプロセスについて「経験からその同一性を見出す」と述べた。そして、他者を認識するには「自身の経験からその類型を探し出して〜」とも述べた。即ち他者を理解しようとするときに受ける印象というのは、自身の性質が反映されるということになる。

 それでは、自己にとって都合の悪い部分が相手の表層にあったとしよう。例えばトラウマ、例えば自分の醜い、浅ましい、卑しいところ。その場合はそれらが想起される訳であるから、そうすると当然不快感が生まれる。そのとき、自我はその同一性を揺さぶることになるのだ。
 またこのような現象は、未知のものに遭遇したときも起こり得る。自分の経験で判別ができないとされたものに対して、人は不安を覚えるものだ。このときも前者と同様に、その自己の同一性は、揺り動かされるのである。
 これらの現象を自己同一性の拡散として、このような経験を物語の主人公は幾度となく経験して、「自分とは何なのか」という存在意義(レーゾンデートル)を熟考し、最終的に導き出すのだ。これが自己同一性の統合である。

 そしてこのことこそが、他者は自己の鏡であると言われる所以だ。他者との出会いが、自己を見つめ直す切欠となる。そこに「物語」は生まれるのである。
 この図式は、当然藤野もやむの著作にも適用されているのであるが、ここで問題とするべきは、そのドラマツルギーである。彼女の作品において、その他者と自己同一性の拡散という問題が、いかなる形で表現されているのか。それを次の項で述懐しよう。



§1-2 他者としてのファンタジーと、虚構による寓意性

 本題に入る前に、まず「フィクション」や「ファンタジー」といった言葉について、少々説明をしよう。
 フィクションとは、概念が抽出されて具現化された様態である。これをより、非現実的な現象で表したものをここではファンタジーと定義しよう。
 説話の類いを例に挙げるまでもないが、古くから人は抽象的な観念に対して、幻想的な形態を与えて寓意化してきたものだ。そしてそのようなガジェットが積極的に採用されているのが、藤野もやむの著作なのである。

 ファンタジーが非日常と他者性を象徴しているものとして、自己とそれとの関係が最も単純なケースは、『まいんどりーむ』であろう。ユメと称される内的世界というファンタジーの中で、またその象徴であるミリートという他者と出会い、自己を省みる。この構造は、まさしく前項で述べた認識のプロセスそのものだ。
 また前項で私は「他者は鏡である」と述べたが、他者性を持ち合わせるものは、必ずしも自分と同様の自我を持ち合わせるものだけとは限らない。本作中の登場人物である坂下舞子の、ユメの中で登場した角のある兎と、それに対して舞子が抱く恐怖などはその好例だ。この関係は、彼女の他者に対する恐怖が寓意化されたものである。
 そしてそれを克服するには、対象の理解へ努めるより他はない。このユメという世界は中でミリートが述べているように、主体の観念が具現化された世界なのである。従って、主体が対象を理解するには、まず投影するイメージを想起しようと「意志」することが求められる。それが願望だ。
 内的世界への自閉という桎梏から解放されるには、他者との関わりの中で自己を省みるより他はないということを、この物語(フィクション)は童話的(メルヘンティック)な様相を以って、寓意しているのである。

 このような願望の投影といった認知バイアスが、その観念自体で現実に作用を起こすといったシステムは、『ナイトメア☆チルドレン』や『はこぶね白書』でも物語の中核として絡んでくる。ナイトメアやぐるぐるへびといった、願望を現実に投影して干渉を加えるというガジェットは、主体の存在意義を経験へ依拠させて、恣意するままに具現化させてくれる、甘美な内的世界へと自己を誘うのだ。
 ここで括目するべきは、そうした現象を引き起こすファンタジーもまた、自我がある主体であるということだ。ミリート、ナイトメア(ソドモ)、ぐるぐるへび、彼らは、相手の精神に干渉を加えることで、自分自身の自己同一性も同時に揺らがされているのである。



§1-3 自己同一性の拡散と統合、その互恵性

 この例として、最も分かりやすい事例がミリートであろう。和泉さやかやケンのケースから鑑みるに、ミリートはユメに迷い込んだ人と接することで、彼女自身も知らない概念を会得したり、何かに気付かされたりして成長していくことが、作中で明確に描写されている。
 このような現象はナイトメアやぐるぐるへびなどでも、同様のことが言えるだろう。超自然現象のように見えるナイトメアは、邪眼(イーヴル・アイ)という能力を持った少年ソドモという主人格があり、またさらに観念的な様相を呈しているぐるぐるへびも、自我のある存在であることが、物語のクライマックスで判明する。
 ナイトメアにぐるぐるへび。いずれも単なる思念にすぎない願望を、現実に対して唯物論的なプロセスを経ることなく、短絡的に反映させる能力を持ち合わせている。しかし果たして、そのような機能は自己同一性の拡散という問題において、何を寓意しているのか。それは、ぐるぐるへびの「閉じ込める」という観念から考えると見えてくるものがある。

 この「閉じ込める」とは、どういうことなのか。それは即ち、存在を抹消するということ。現実に在るものを「喪失」させることだ。自己同一性の拡散において考えられることのできる要因のうちで、極めて純粋な形相を成しているのが、喪失なのである。
 それでは、「閉じ込める」という機能と自己との連関は、何を志向するのか。
 私は前の項で、「主体の存在意義を経験へ依拠させて、恣意するままに具現化させてくれる、甘美な内的世界へと自己を誘う」と述べた。しかしそれは、相模左甫が現実世界から自己を喪失させることを願望していることから分かるように、その極致に在るのは自身の消滅である。
 即ち、内的世界に永遠にとどまっていたいという願望の極致は、「死」だ。これは、人間が欲望の赴くままに幻想を生み出すことができるようになる代わりに、そのまま自閉へと没頭し続けると最終的には死を迎えるという代償を背負う、ナイトメアの憑依現象からも同様のことが言える。
 従って、こうしたファンタジーな機能と登場人物の自己との関連性は、自己同一性の拡散が最終的に行き着くところが死であることを、寓意していると考えられるのだ。

 このように自己同一性が拡散した状態から、また統合し直すには、自我の鏡である他者との接触が欠かせない。
 この好例として、福田ねこ、相模左甫、ぐるぐるへびの三者間におけるパースペクティブから鑑みよう。彼らはクライマックスで、現在に至るまでのおのおのの因果関係を知ることで、自己存在を確認することができたのだ。
 フネはぐるぐるへびに対して「あなたは「ぐるぐるへび」じゃない」と告げ、自分がこの学園に来た真実を知る。そうしてこの三者を繋ぐ因果を、次のように総括した。

「……愛
 ……そうか …あのひと 佐甫くんに消えてほしくなかったのかも
 だから私はここにいて 佐甫くんを愛しちゃってるのかも!!」

はこぶね白書 第7巻 P.P. 115〜118 福田ねこ

 彼らはこの邂逅において、自己の存在意義を再確認し、各々の互恵性を確かめることができたのである。

 このような自我同士の接触による互恵性は、人間関係を構築するにおいて規定となる観念であるが、その様相を寓意するのがフィクションだ。そうして、その虚構の物語の中で描かれる超現実性に、我々と同じような人格性を湛えていることを認めるところに、登場人物間における自己同一性の拡散と統合は、読者へ認識される。
 そしてこうしたファンタジーの存在は、人間関係の中で構築されるイデオロギーの構造、そのものに迫っているのだ。


§2 自己同一性と社会イデオロギーとの連関性

§2-1 存在意義を「日常」(環境)という社会イデオロギーに委ねる登場人物達

 自己同一性の拡散は、自己の存在意義を委ねているものの喪失から始まる。従って、自己(主体)と社会の相関性と同一性の問題については、その主体が何に存在意義を委ねているのかを考えなければならない。
 主体が自己の同一性を委ねるもの、それは「日常」というイデオロギーである。
 ここでいう日常とは、主体にとって平静な状態で過ごせる環境のことを指す。即ち、自身の同一性が統合することのできる時間・空間(=環境)が日常なのである。
 ここで他者と接触による、自己同一性拡散についてもう一度述懐してみたい。私は大セクション1の小セクション1で、自分の欠点が表面に現れているもの、未知のものに対して、人は自己同一性の拡散を起こすと述べた。このような事柄に遭遇して、人は不安な気持ちに苛まれるのは、平穏無事でいられる「日常を喪失」するからである。

 日常という定義を上述のように想定すると、当然その反定義である「非日常」も当然存在する。この非日常は、今迄の話を鑑みるに他者との接触のことと見ていいだろう。そしてこの「他者性=非日常性」を象徴しているのが、ファンタジーなのである。
 ナイトメアなどは、まさにその好例といえよう。大切に想える人がいて、その人がいるから、自分の存在意義を自己確認できる。自己の同一性が保障できる。それがその人にとっての日常。――しかし、その日常はいずれ喪われる。そうした日常を喪った人に取り憑いて、日常を永遠に奪っていくのがナイトメアだ。即ち、死へ。
 このことから考えなくてはならないのは、自分だけは平穏無事でいたいという日常という前提が、如何にして脆弱で、身勝手であるかということだ。
 このような思念が集合化すると、それは極めてパワーのある社会イデオロギーへと変貌する。そこから結びつくのが排他であり、差別はその最も純粋足る形相だ。他者を蔑み、退けて、自己と向かい合うことなく、存在意義を確保するという保障行為。その基底こそ日常という、曖昧模糊としていて且つ極めて主観的なイデオロギーなのである。

 日常というイデオロギーは、仮初のものである。このことは、『ナイトメア☆チルドレン』をはじめ、藤野もやむの作品では一貫して主張されている命題であるのだ。

§2-2 日常のクライシス――存在意義の喪失、境界の侵犯と崩壊、ロゴスの不在
 ここで日常という観念をもう少し掘り下げてみるために、藤野の作品を振り返ってみる。
 彼女の著作のうち、ファンタジーが物語上のキーポイントとなるものを執筆順に追っていくと、後年の作品へなるに連れて、そのイデオロギーが確固とした自律性を備えていくことが分かる。即ち、独自の社会形態が確率するということだ。

 例えば『まいんどりーむ』では、今我々が住んでいる現実世界とミリートと邂逅するユメとで、二つの現象界が存在する。しかしユメの世界とはいえ、その現実世界にいる個々人の内的世界があって、初めて存在し得るといえるので、その自律性は皆無といえよう。
 しかし『ナイトメア☆チルドレン』では、邪眼を持っている人間の集団と、そうでない者の集団とにおいて、イデオローグの対立が描写されていることから、双方に自律した社会イデオロギーが成立していることが分かる。
 『賢者の長き不在』では、そのイデオローグが国家を形成するまでに発展する。作中で描かれる精霊の住まう世界は、まつり達の住む現実世界との間に相互認知はなく、社会イデオロギーの対立もない。しかしこの世界にあるティルテュ国は、我々の住む世界と比べても遜色のない程度の社会システムが形成されている。
 このような社会イデオロギーが自律して形成されているということは、各々の領域に住むそれぞれの主体にとって、「日常」という観念が形成されるということだ。そして、その二世界の境界が、いずれかの主体が他方へ介入することによって曖昧になり、それぞれの各個人のアイデンティティに影響を与えるのである。

 ファンタジーと現実との二者の境界と、主体による他方への侵犯という問題は、『はこぶね白書』によってより深化されて描かれているだろう。この作品では、外界につながる電話や、抜けようと思えば抜け出せる結界、フネの脱走と帰還、忍者という特異な存在など、フネの住む現実と化アニマル界という、その境界自体が無効であるかのようなシークエンスが成されている。
 ここで特にフィーチャーしたいのは、フネが「自分が学校にいることに対する意義の喪失」を動機とした脱走と、そして帰還までのドラマツルギーだ。彼女は無我夢中で学園の結界から抜け出し、公共機関を使って一旦かつての日常であった故郷に帰る。しかし、そこで後を追ってきた狐タ郎に出会い、学園での自己と他者との関係性から、これまで「非日常であった学校での生活に日常を感じ」、帰還を決断した。
 このシークエンスから、如何に「日常」という観念が疑わしいものであるかを推し量ることができるだろう。また日常と非日常という境界が、如何に脆弱であるかをはっきりと示したエピソードなのだ。

 ここまでくれば、その日常という観念が主観的なものであるかが、明瞭に成ってきたであろう。自分にとっての日常は、違う領域に住む他者にとっての非日常なのである。日常を押し付け合うことは排他と同一なのだ。
 それでは、社会イデオロギーとしての日常を形成するのは何か。それはコミュニティであり、その根底を成すのは国家である。
 通常、個人と政治の間には、コミュニティという社会性が介在するものである。国家は通常、「個人―社会(各コミュニティ)―政治(権力)」という図式で成り立っている。しかし、各コミュニティのトップである精霊(マスター)との契約という形で、政治的権力を得るまでのプロセスを短絡化させているのが、『賢者の長き不在』で描かれるティルテュ国王の継承儀式なのだ。

 この短絡性を強調しているのが、現実世界の子供達が精霊達と契約していく、その経緯だ。まつり、豊、阿佐美、也人、彼らは皆、自分の存在意義を他者に委ねている。そのような依存する心を持った状態で精霊と契約することで、彼らは心の隙間を埋めようとする。
 このような今自分が不満を抱く日常から逸脱し、新たな日常を求めようとする心が、社会的権力と繋がっていくのは、非常に危険なことだ。そうした不安定な信頼関係でなりたっていた彼らのうち、一番情緒不安定であった豊はツカネにいいように利用されて、ヴァルム達に刃を向けてしまったことが、そのアンバランスなイデオロギーの恐ろしさをよく表している。
 この物語は、自分の求める日常へしがみつく子供の未熟性(願望・依存)という危うさが主題にあるが、そのシークエンスからは「主体―権力」という相関性が抱いている、根本的な問題が象徴されていると推測できる。

 それでは日常という観念の起源はなんなのであろうか。それについては、この『賢者の長き不在』というタイトルが暗に示している。
 賢者というのは、ユング心理学の核となる概念である、集合的無意識を形成するための数ある原型(アーキタイプ archetype)のうちの一つ、ワイズマン(Wiseman)に相当する。これは、父権的な選択的精神原理(ロゴス logos)を司る原型だ。従って、「賢者の不在」というのは、「父性及び理性の不在」と考えてよい。
 そして日常において父性が喪失するということは、日常の期限を司る原型が台頭し、主体を支配することになる。即ち、母性(グレート・マザー Great Mother)だ。
 ユング心理学で言うところのグレート・マザーは、母権的な受容的生命原理(エロス Eros)を象徴する。要するに、感性や情緒といった感覚的な観念を司る原型だ。これはワイズマンの対極に当たる原型とされ、これら二者が均衡を保つことによって、人間は自我の統合性が安定する。
 従って、ワイズマンが喪失をしてグレードマザーが放縦してしまうということは、その極致に自己の統合性の欠如、思考停止及び判断停止が待ち構えているということだ。

 前項で私は、日常にしがみつくことを排他と呼んだ。そこには、他者を理解しようとする思考能力の停止があると考えられる。それを判断停止とするならば、その根源にあるのはグレート・マザーといえよう。それを潔しとしない藤野もやむの作品は、それらに一貫した命題を、母性依存の否定と推し量ることができるのだ。
 この問題については、大セクション1の3で取り上げた『はこぶね白書』における、相模左甫とぐるぐるへびのエピソードが、その本質をよく描いている。
 その特殊な環境下で自己を見失っていった左甫は、日常の象徴である母を求めた。その末に彼は、ぐるぐるへびと出会った。何故、左甫はぐるぐるへびに惹かれたのだろう。そして何故、ぐるぐるへびは左甫を保護したのか。
 それは、フネの「お母さんみたい」という感想に集約されている。自分が目に掛けた個人に対して、その日常を保障してくれるぐるぐるへびは、グレート・マザーの表象といえるだろう。そしてぐるぐるへびはその手段として、他者の日常を強制的に喪失させる力を持っている。それは個人の記憶などの観念的なことから、生理現象などの物質的なことまで。さらには、高校入学などといった未来までも操作してしまうほどだ。それは、精霊の能力や邪眼などの比ではないほどに、強烈で暴力的である。

 日常という曖昧模糊としていて脆弱な観念、またそれが備える排他性・暴力性、その根源にある母性へ依存するアイデンティティの弱さ。そうした命題を、ファンタジーという寓意を用いて批判し続けているのが、藤野もやむの著作なのである。『はこぶね白書』は、その透徹した概念に対する、一つのアウフヘーベンとして見ることができるのだ。


総轄

 主体による他者の理解という認知バイアスの構造が招く、自己同一性の拡散・統合の問題は、物語という形で寓意化される。ファンタジーとは、その表象であるのだ。
 自己が他者との関わりのなかで生きていくというパースペクティブ(構造論)を、日常というイデオロギーをレゾンデートルとする脆弱性と危険性への警鐘という観点から、ナイトメアや夢、精霊や化アニマルといった幻想的なガジェットを以って紡がれる物語。これこそが、藤野もやむの描くファンタジーに透徹する、哲学的命題であると私は本稿を執筆して確信に至った。

 そして、そのようなアポリア(難問)に挑もうとする姿勢は、現在連載中の『忘却のクレイドル』でもひしひしと感じ受けることができる。
 孤島での特殊訓練を義務付けられた子供たち。彼らは、自分達の生活とは埒外だと思っていた戦争の色をここで感じて、日常という基底自体に疑念を抱き始める。そして、その蟠りに対する一つのテーゼが、余りにも激烈な形で子供達の前に提示された。眠りから覚めると島が廃墟と化していたという事実によって、いよいよ日常という観念そのものが粉々に打ち砕かれてしまう。
 揺り篭(クレイドル cradle)の名を冠する孤島。揺り篭とは日常の起源にして、母性の象徴だ。それを忘却するということは、「母性=日常」を廃棄するということなのか。

 彼女が紡ぐ物語の中に透徹した、自己同一性と他者との関係性(社会イデオロギー)における問題は、この極端なまでにドラスティックな様相を湛えた物語を以って、新たな局面を迎えようとしているのだ。今後とも彼女は、熱心な読者を釘付けにして止まないことだろう。

参考文献・リンク

「おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』」
―「第13回 はこぶね白書
http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/comic/013.html