旅人の手記 三冊目 ‐ 蝉海のブログ -

日常のよしなし事や、マンガ・アニメ・ライトノベルなどのポップ・カルチャーに関する文章をつらつらと述べるブログ。その他の話題もたまに。とっても不定期に更新中。

『すずめの戸締まり』を観てきました

 またまた新年明けて、二か月経過してしまいました。
 もう面倒なので、新年の挨拶は抜きで本題から入ります。

 

 コロナ禍になって以来、三年半(正確には三年と七か月)ぶりに映画館で映画を観てきました。
 観てきたタイトルは、新海誠監督の『すずめの戸締まり』
 金曜日の夜に都心の映画館で観てきたのですが、公開から四か月も経っていてこの時間であるのにも関わらず、それなりにお客さんはいました。ネームバリューの大きさを感じましたね。

 それで内容の感想なのですが、まずはネタバレにならない感想からいきたいと思います。

 まずプロット構成が、いままでの映画のなかでは最も作り込まれていて、基本設定も整合性が取れているように感じられました。
 それと、フェティッシュで尖った部分はできる限り抑えられているのも、楽しむための敷居を高くしないよう配慮して作られているなと思いました。ジュブナイルであると同時に、フェティッシュな描写もあった『君の名は。』『天気の子』など前二作に比べて、ストイックな印象が強いです。
 今回は鈴芽(すずめ)という宮崎県のとある町に済む女子高生が主人公のため、そうした表現には一層気を遣い、かつ近年におけるジェンダー論の高まりを意識した描写が組み込まれていたように思えます。具体的には、旅の過程や血縁者同士とのシスターフッドの形成や、もう一人の主人公格である男性登場人物・草太(そうた)とのフラットな絆といった描写ですね。
 また新海作品は、主要登場人物が本職の声優さん以外の人が担当することが多く、本作も同様のキャスティングでした。しかし、それで違和感を覚えることは全くなく、全員すごくハマっていたように思えます。特に草太役の松村北斗さんは、「アニメで求められるカッコいい男性の声というのをわかっているな」という印象が強く、とても声優初挑戦とは思えない好演でした。
 あとストーリーがかなり大急ぎで展開されるのに、セリフは一切説明口調にならず、「圧倒的なクォリティの音響、絵の動き、物語の展開といった『動き』で分からせる」という方向性が、徹底されていました。その一方で、力を抜くべきところは抜いている(カメラが遠い時は目が点になる、定期的にコメディタッチのデフォルメを入れるなど)ので、緩急のつけ方が本当に上手いです。
 総じて、クォリティにおいては間違いなくトップクラスの出来栄えであったと、私は感じました。新海監督がこれまで描いてきたことの総括であると同時に、今後のさらなる飛躍を期待させる内容と言えます。

 ここからは、ネタバレありの感想です。大丈夫な方は「続きを読む」からどうぞ。

 

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もう半年寝るとお正月

暑中お見舞い申し上げます、蝉海です。
もう七月ですね。暑いですね。
mixiの日記から数えて11年間やっていた新年のあいさつですが、
とうとうここに来て、ストップです。
七月の更新は、さすがに新年のあいさつとは言えませんよね。
いや、二月とかにやったこともありましたが、旧正月なのでセーフです(?)。
七月は完全にアウト。

 

まあそんな感じで、ブログはほぼ開店休業状態です。
歳を取るとともに、近況も笑えなくなることも多いので、
余り多くのことは語りません。
とりあえず、就職は失敗しました。
去年の七月に退職して、バイトで家を支えつつ、食いつないでいます。
短期の仕事も終わってしまい、これから大絶賛求職活動です。
とりあえず、まとまったお金はあるので、自動車免許(AT限定)を取に行こうと思います。
歳も歳ですし、これからは非正規でも免許ぐらいなければ選択肢は狭まるでしょう。

 

まあ、どうにかこうにか生きていこうとは思います。

 

そういうわけで、今年もここは開店休業状態です。
それと、twitterも最近停滞気味でしたね。
プライベートアカウント(鍵)は色んな知り合いの方がいるため、
歳を取って色々気にし過ぎるようになって、
言葉を選んでいるうちに発言そのものをしなくなってしまいました。
良くありませんね。
でも込み入った話をする勇気はないので、
そういうのはmixiにでも投稿しようかな。

 

それでは、皆さまどうか健やかに。

 

(Now Playing: キリト『Hameln』)

王冠はもういらない

謹んで新年のお慶びを申し上げます。

 

昨年は、言葉で言いつくせないような出来事が多く起こり過ぎたように思えます。
正直、何を言っても忌み言葉になってしまうので、
詳しくは控えさせていただきます。
一日も早く、この世界が「優しさ」を取り戻せますよう願うしかありません。

 

私個人の話と言えば、
当初予定していた形とは違いますが、ようやく進路が固まりそうです。
ただその話をできるほど、まだ心の整理がついていないので、
またのちほどお話できればと思います。

 

ここで、一つお知らせがあります。
私は長年使用していたハンドルネームを変更致しました。
「蝉海」の二文字が私のこれからの正式なハンドルネームになります。
今後ともよろしくお願いいたします。

 

さて。この例年の挨拶はこれまで、
今年の抱負を述べる場として毎年執筆しておりましたが、
今後はもう、生存報告の場として割り切ることにいたしました。
もちろん、何か動きがあればご報告しますが、
今までのように気負って何かを述べることはもう致しません。
あまり変わり映えはありませんが、
今後はこれまで以上に、気長に見守っていただきたく思います。

 

それでは、今年が皆様に取って善き一年でありますよう、
お祈り申し上げます。


(Now Playing: SEKAI NO OWARIDragon Night (in English)』)

アニメ『食戟のソーマ』におけるジェンダーの役割分担について

 先日、5期に渡ってシリーズが続いたアニメ食戟のソーマが最終回を迎えた。大変面白かった。とてもきれいな終わり方で、この作品らしい結末を迎えたように思える。
 さて。私は本作において最も注目した点は、登場人物の役割分担がジェンダー的に見て、極めて平等に構成されていることである。

 

 本作における女性キャラクターは皆、「自立した個人」としての役割を与えられ、誰一人として「女」であることを武器にしない。そして男性キャラも同様で、彼女らを「対等な個人・ライバル」として接している。彼らの関係性には性差はなく、性的なニュアンスも一切ない。恋愛感情すらほぼ描かれない。
 本作は「料理のリアクションとして、イメージの中で、または実際に脱衣する」というお色気描写を前面に出しているにも関わらず、作中のキャラ同士で「他人を性的な目で見る」場面はほぼない。これは、「性的な関係」の描写に頼る傾向が強い少年向けの娯楽作品において特筆するべきことだ。

 

 また本作は「競技モノ」としての側面においても、ジェンダー的配慮がなされている。競技モノというのは、本来性差が生じ得ない題材(将棋や囲碁などのボードゲームTCGなどのホビーものなど)であっても、「主人公と他のライバルは男ばかり」といったジェンダー不均衡が生じることが多い。
 ところが本作においてそれはない。終盤までずっと、あらゆる役割において男女比は均等のままだ。ほぼ全員がライバル同士。ただ競技者を献身的に支えたり、戦いの帰りを待ったりする役回りの人間は、全くと言っていいほどいない。生まれ持った性別で役割が決定されていることは、一切ない。

 

 本作の基底にある「ジェンダー的に対等なライバル同士」という構造の、その最大の象徴が主人公の幸平創真とヒロインである薙切えりなの関係性である。
 本作に、「主人公を慕う」という意味でのヒロインは存在しない。ヒロイン=ライバルだ。それも、常に主人公の「上」に立ち続ける。ストーリーの中では、何度かえりなが弱音を吐く場面がある。けれども創真は、男性が女性に対して「慰める」態度は一切取らない。ライバルとして「焚きつける」のだ。そこには、ジェンダーレスな、対等で、清々しい関係を見て取れる。

 

※ 以下、下記の作品についての核心的な部分のネタバレがあります。

アニメ『食戟のソーマ 豪ノ皿』

 

 本作は、創真がえりなに敗北して物語を終える。最終的にライバルに負ける結末で、しかもそのライバルが女性である少年マンガや料理マンガ、競技ものの先例を、私はパッと思いつけなかった。

 

 以上のように本作は、リアクションとして「おはだけ」や「喘ぎ声をあげる」などのお色気描写とは正反対に、キャラクター同士の関係性は、ジェンダー的にアップデートされた興味深い意欲作であると言えよう。この5期は、本当に楽しませてくれた。
 なお、私は原作を読んでおらず、以上の文章はあくまでも、アニメを視聴した限りでの感想である。もし、私の記述が「原作と食い違う」箇所があるならば、忌憚なき意見を伺いたく考える。

 

(Now playing: nano.RIPE『エンブレム』)

『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の魅力の核には、オールドガンガン系作品の特徴である『優しさ』が潜在している

 ガンガンONLINEで連載中のマンガ私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!谷川ニコ)について語られる際、取り挙げられる本作の特徴として次のような言葉がよく見受けられる。「非リアもの」「痛々しい失敗譚と成長物語の同居」「百合百合しさ」などといったワードは、確かに本作を構成する要素であるとはいえる。
 だが私は、本作の魅力の根底に「オールドガンガン系作品の特徴」を見て取ることができると考えている。

 


・オールドガンガン系作品の特徴

 

 本題に入る前にまず、「オールドガンガン系作品の特徴」とは何かを定義しておく必要がある。「オールドガンガン系作品の特徴」とは、「90年代のガンガンおよびその派生雑誌の掲載作品、あるいはそれらに強く影響を受けた以降の作品に共通するとファンに感じられている『何か』」である。
 その定義は読者によって大幅な揺らぎがあるが、おおよそ次のような言葉で語られることが多い。

 

「冒険やファンタジーなどRPG要素」「勧善懲悪ではない世界観」「アンチ・マッチョイズム」「個性的だがアクの強さはない」「可愛らしく優しい絵柄」「ハートフルな日常」「キャラクター人気の高さ」

 

こうした要素を、雑誌の複数作品に、あるいは雑誌を超えて見て取ることができると主張するオールドガンガン系作品のファンは、かつてそのファンダムにおいてよく見受けられた。
 次に挙げるのは、90年代に『月刊少年ガンガン』の読者だった人の記事である。

 

ozakit.o.oo7.jp

 ozakit.o.oo7.jp

 

筆者は、こうしたオールドガンガンファンが主張するこれらの印象を筆者は「『ともに過ごす時間』の描写が魅力的」*1だったと総括している。その上でさらに、これらオールドガンガン諸作品の系統を「ロト紋型」と「パプワくん型」の二つに分けられるというのだ。
 筆者は、二つの系統にはそれぞれ特有の価値観があり、前者は「複数人でパーティを組んで旅をする」こと、そして後者は代表に挙げている作品『南国少年パプワくん』の台詞から「今日からお前も友達だ」という価値観であると主張している。*2後者の例として彼は、代表作である『パプワくん』を始めとして、『パッパラ隊』『浪漫倶楽部』『CHOKOビースト!!』などを取り上げ、また前者の系統でありながらこの想像力を保有する作品として、『グルグル』や『刻の大地』を挙げている。*3
 私は、この筆者の考えに近い立場を取る。だが筆者は、これらの特徴というか想像力を、『まもって守護月天!』や『最遊記』が始まった97年辺りを契機として、以後のガンガン系諸作品には余り適応しないという立場を取るようであり、ここは私の見解とは異なっている。これら「『ともに過ごす時間』の描写が魅力的」という特徴から派生した、「今日からお前も友達だ」という価値観は、97年以後のガンガンおよび姉妹誌の作品にも通底していた、という立場を私は取る。具体的にどのような作品が入るのかは、スクウェア・エニックス系作品のレビューサイトである「たかひろ的研究館」における以下の記事とほぼ意見を同一にする*4
 こうした「オールドガンガン系作品の特徴」を、それとは正反対とされる「アクの強い」作風とされた『わたモテ』も実は備えている、それも本質的なものとして潜在しているのだ。そのことを本論においては、考察する次第である。

 

※ 以下の作品について、核心的な部分のネタバレがあります。

マンガ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』1, 6, 8, 9, 12(谷川ニコ スクウェア・エニックス

 

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今のTwitterは議論ができないどころの話ではない

Twitterでは議論にならないことが多い」 

 

 こんな嘆きを耳にして久しい。
 私は、それはそうだ、と思う。何故なら、そもそもTwitterは「リプなどで各tweetの前後関係が乱され易く、議論などシステム上成立し得ない」し、「議論の前提であるはずの、『主観的な感想と客観的な事実の指摘を分ける』ことを意図的に『守らない』人間がバズる仕組み」になっているからである。

 

 ・あるツイートに興味を持って開いても、スレッドでつながってないと何についての言及なのか、あるいは議題がわかっても文脈を理解するのに気力と時間が要る。
・アカウントURLに飛んでも、リツイートが乱立してタイムラインを追いにくい。
・その上、返信(リプ)のなかで会話が進んでいる場合もある。
・各リプを見ても、複数のアカウントによるリプが入り乱れているから、各スレッドのつながりを時系列順に理解し直す必要がある。これは大変である。
・各アカウントURLのタイムラインを追い直してみても、リプ合戦の途中で引用や別の話題の返信、リツイートなどが挟まれると、勢いぶつ切れになりやすい。(集中して文脈を読み解くのがつらくなってくる)

 

 どうだろう。ざっと思い付くだけで、これだけのシステム上のリーダビリティーの悪さが浮かび上がってくるのだ。その上、このような煩雑なシステムは「悪意を口に出して気持ち良くなりたい」人の味方をする。

 「リツイート」はそのもっとも足るものだ。自分にとって都合のいいツイートだけをリツイートをすることはアカウント主の承認欲求を満たす心理的な効果だけでなく、自分のアカウントURLのタイムラインを荒らして文脈を追いにくくする効果もある。またミュートやブロック、報告機能を駆使することにより、自分にとって都合の悪い意見は一切耳に届けなくていい。
 またtwitterはブログよりもアーカイブ困難なため、ツイ主は自分自身のtweetを反省する機会を与えられないし、ツイ主以外のアカウントからは発掘するのは困難である。(プリスクや魚拓などが施されたり、自力で発掘されるのは、アカウントが有名な人間か余程に公序良俗に反するような振る舞いを普段からしているか、あるいはストーカーの犯行のような特殊なケースだ)
 こうして、ユーザー同士は自分にとって都合のいいクラスタだけに固まっていき、互いに承認欲求を満たし合って、理念なき先鋭化を続けていくのである。

 

 こんな歪なシステムとそれに乗っかるユーザーが蔓延っては、共通了解を出して問題を収束に向かわせるどころか、そもそも互いの論旨すら不十分な理解に終わり、悪意とわだかまりだけを『議題』に残しかつ増幅・拡散させるのは、無理からぬ話なのである。

 

 それでも何故、人はTwitterから離れられないのだろうか?
 それはTwitterの、かつてない情報の流動性が強烈な刺激を与えるからである。
 アカウント数は膨大。更新頻度は絶大。
 こんなメディアはこれまでになかった。このパワーは、テレビや雑誌などの別メディアとは比較にならない。また、インターネットの歴史を振り返っても、ここまでの流動性のあるホームページやBBS、SNSは類を見ない。


 ヘビーユーザーにとって、各tweetの内容は実はどうでもいいのかもしれない。絶え間ない更新そのものが刺激的で、それに依存させられるとは考えられないだろうか。やたら攻撃的な発言をしたり、何時間もtwitterにしがみついている人は、自他共に実害のある依存状態といっていいのではないか。
 この強烈な依存性が、上述の現状の根底にあるのだ。

 

 Twitterは群を抜いて凶悪で、混沌としているソーシャルメディアだ。
 そして、このようなTwitterの現在的な問題が解決したり、代替メディアが台頭したりする兆しは、全く見えていない。

 

 Twitterは人の手に負えない。
 嫌になったら、ログアウトするより他に手がないのが現状なのだ。

2020年代の幕開け

もう一月も終わりですが、明けましておめでとうございます。
昨年は二回更新しましたが、今年は果たして。

 

余りはっきりとは言えないのですが、
今年もしばらくの間は進路のことでいっぱいの一年になりそうです。
それと家のことでもやや変化があり、私があれこれと動くことになりました。
あと少なくとも半年以上は低浮上の状態が続くと思います。

 

昨年中はこのように家と進路のことがあって、やや精神のバランスを崩しかけさえしました。
長梅雨による体調への干渉もあって、
ものごころついてからずっと悩まされている睡眠障害もややひどくなり、
生まれて初めて心療内科を訪れました。
検査の結果、幸いにも「即治療の必要はなし」とのことで2回だけの通院で終わりましたが、
今後悪化する可能性は否定し切れないので、十分気を付けたいと思います。
私はこれまで受験や就職活動のことで、
心療内科のお世話になるほど追いつめられたことがなかったため、
「先のことが決まらないという状態が続く」
というのは本当に危険なことなのだな、と改めて思い知らされました。
何年も浪人したり頑張っても正社員になれなかったりしている人たちの苦労は、
察するに余りあるものがあります。

 

あと諸事情があって、
昨年5月に小説家になろう様にて公開していた拙作フェアリーリングフェアリーテイルを、
一旦削除させて頂きました。
理由は詳しく述べることはできませんが、
ストーリーの根幹に関わるところにおいて表現上の重大な問題があることに気づいてしまったのです。
そのため、このまま連載を続けるのは厳しいと判断したのです。
これまで評価やブックマークを付けて頂いた方には、大変申し訳なく思っております。
こうなるともう、「エターナった」とように思われてもしかたがありませんね。
しかしながら、まだ完全に諦めたわけではありません。
プロットを一から作り直した上で、身辺が落ち着いてから連載再開できればと考えております。
普通に考えれば見限りをつけて、新しい作品を書くべきなのですが、
本作は私にとって「分身」のようなところがあり、
「考えたくなくても考えてしまう」ような存在となってしまいました。
こうしたところが私の「凡庸」たる所以であるとは自覚しております。
お付き合いください、とは言えません。
それでもお待ちいただける、というのであれば、私にとって望外の喜びであります。

 

毎年言っているようですが、本当に至らない私めを、
何卒今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

(Now Playing: Laputa『meet again』)