旅人の手記 三冊目 ‐ 蝉海のブログ -

日常のよしなし事や、マンガ・アニメ・ライトノベルなどのポップ・カルチャーに関する文章をつらつらと述べるブログ。その他の話題もたまに。とっても不定期に更新中。

刹那の夏

こんにちは、蝉海です。
今日も簡単な近況と読んだ本のごく簡単な紹介だけ。

このところどういうわけかまた、
昔のエニックスのマンガに触れる機会が多くなっています。
夜麻みゆきさんの『レヴァリアース』『幻想大陸』を読んで、
どっぷりオッツキイム沼にはまりこんだり(『刻の大地』は読破中)
おざ研で牧野博幸さんの『勇者カタストロフ!!』を読んだり。

その流れというわけではありませんが、
この間、ふとした切欠で天野こずえさんの短編集夢空界』『空の謳』
を買いました。
ファンからは未だに話題になるこの二冊ですが
読んでみると、たしかにこれら短編は心に残るであろうとは思いました。
前者はデビュー前の作品も多く収録されていて年月が相当経過しており、
技術的な面でもテーマ設定も現在とかなりのギャップがありますが、
「きらめく一瞬のときを追いかける」というこの作者の核は、
はじめから顕在であったのだなと感じました。

短編・掌編に宿る独特の瑞々しい感性といいますか、
私はどうもそういうものに惹かれるところがあるようです。
高校のとき、冬目景さんの『僕らの変拍子』とか鬼頭莫宏さんの『残暑』
とかを繰り返し読んでいた、あの頃のことをふと思い出させてくれました。

それでは、この辺で。


(BGM:ZARD『あの微笑みを忘れないで』)

やれやれ

こんにちは、蝉海です。
今月の後半は少し忙しくなるので、
今週・来週の更新は単なる近況だけにさせて頂きます。

昨日ですが、ゆりいかさんが主催される
「あの夜(よ)の読書会」に参加してきました。
今回の課題図書は風の歌を聴け村上春樹
時系列が複雑な作品であるため前回と同じく、
或いはそれ以上に議論が白熱し、
総じて有意義な読書会になったことと思います。

私の村上春樹氏に対するスタンスですが、
「好きでも嫌いでもないけれどオリジナリティを感じ、
 リーダビリティーを求めてたまに読みたくなる」
という感じですね。

私が春樹氏の著作に初めて触れたのは高校二年の秋のことです。
氏の代表作といわれる『ノルウェイの森』を手に取ったこと、
それがファーストコンタクトでした。
しかし「何が何でもセックスや性描写を絡める」という作風が、
どうにもこうにも肌に合わず、
それから氏の作品からは距離を置いていました。

それからしばらく経って前の大学の三年生のとき、
ふとした切欠で手にとったのが『風の歌を聴け』だったのです。
気障な雰囲気はあれどアフォリスティックな文体が気に入り、
その後いわゆる青春三部作を一気読みしました。
そこから『納屋を焼く』などの短編、
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『海辺のカフカ
など氏の代表的な長編を読破。
あと『村上朝日堂』などのエッセイも手を出しました。

まあ、そんな風に一通りには読んでいるつもりです。
ただ『1Q84』以後の作品にまるで手をつけていないので、
最近の作品については語れません。
そろそろ図書館で予約待ちすることもないだろうし、
読んでみようかなとは思っています。

それでは、今日はこの辺で。


(BGM:The Beach Boys『California Girls』)

SNSは沼 いろんな意味で

こんばんは、蝉海です。
す み ま せ ん 読書メーターに甘んじています。
あっちで感想書くと、こっちで作品紹介とかあまりやらなくなるんですよね……。
あるいは、twitterか。

というかぶっちゃけ、twitter読書メーターとやっていると、
簡単な感想とか紹介とかをブログでやる意味って、
あまりないんですよねえ(爆←最近見ないね? コレ)
もちろん、ちゃんとしたコラムか論説は真面目にやっていますが。

けれども、定期更新やめたらズルズルと放置しそうで。
それだけは怖いんですよね。

ごめんなさい、根がナマケモノで。
というわけで、このブログはこんな感じで細々と運営していくと思います。
そういうわけで、今回は軽い近況だけ。ではでは。

(BGM:the FIELD OF VIEW『Real Prayer』)

作品における作者の自意識の発露と読者の共感について悶々

(前略)たとえば、ある作品を見て、「この作家は子どものときに傷ついている」などといわれてしまうのは駄目な作品だと思うんです。じゃあ何がいい作品なのかをいうのは難しいですが、向こうを、遠くを見せる作品と言うか、カント的にいえば「星を見つめさせる」作品ではないでしょうか。難しくいうなら、アルケオロジック(始原論的)ではなく、エスカトロジック(終末論的)な、ということですが。

谷川渥『書物のエロティックス』右文書院 P277
(美学者塚原史氏との対談においての発言)

この谷川先生の発言の前後には具体例が無いので、
「『この作家は子どものときに傷ついている』と分かってしまう作品」というのが、
どういう作品のことを指しているのかが、いま一つ分かりません。
ただ、その手がかりとなるんじゃないかという箇所はあって、
それは、本書の前のページにおける諏訪哲史氏との対談の一部分です。

 日常生活をちょっと切り取ってうまく書けているとか、そういうリアリズムというのかな、感慨とか心情とかがうまくかけているとか、そういう小説はもう読みたくないんです。

谷川渥『書物のエロティックス』右文書院 P216
(小説家諏訪哲史氏との対談においての発言)

ようするに、こういうことじゃないかと私は思います。
「作者が、作者の自意識が、『分かってくれよ』という声が透けてみえてしまう」
というような作品というのは拙い、と。

ただ、多くの人に受け入れられるような作品って、
映画でもアニメでも小説でも音楽でもマンガでも、
ユーザーの「共感」を呼ぶような作品じゃないかと思うんです。
私がこのところずっと「カゲロウプロジェクト」なんて、
まさしく「自意識と共感」によって成り立っているムーブメントといえます。
勿論そうであるがゆえに、
そうした大衆娯楽は文学・藝術足りえないともいえますが……。

また、そもそも自意識を剥き出しにすることだって突き詰めれば、
太宰治などの新戯作派を例に取り上げるまでもなく、
立派に文藝足りえるものなのではないでしょうか。

全くまとまらないままですが、そんな、
我ながら未熟で拙劣な思弁を延々とめぐらしている今日この頃であります。

では、季節の変わり目に体調を崩されぬよう。

書物のエロティックス

書物のエロティックス

(BGM:上原あずみ『無色』)

「カゲロウプロジェクト」のメドゥーサ観――「見る≠所有する」というアンチテーゼ

※ 以下の作品について、核心的な部分についてのネタバレがあります。
 
 マンガ『カゲロウデイズ』1〜5
 (著・じん 作画・佐藤まひろ 刊・メディアファクトリー)1〜5
 小説『カゲロウデイズ』1〜5(著・じん 刊・エンターブレイン
 アニメ『メカクシティアクターズ

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オッツキイム

昨日『レヴァリアース』(夜麻みゆきという作品を
絶版マンガ図書館にて一気読みしました。
感想ですが、昨日のtwitterで言いたいことは言ってしまった感じなので、
ここにペタペタ貼り付けておきます。

さて。それでは『幻想大陸』刻の大地も読むか……。
ただ『刻の大地』は、当時の連載の結末を何度も聞いている分、
かなり不安はある。

ではでは。また来週。


(BGM:KUKO『前を向いて歩こう』)

『ノーライフキング』と周縁作品に関する断想

 先週の日曜日だが、ゆりいかさんが開催された読書会に参加した。課題図書は前に申し上げたとおりノーライフキング』(いとうせいこうである。

「あの夜(よ)の読書会 開催のお知らせ」
「ハロー・ブンガク・グッドバイ」

 大学のゼミを髣髴とさせるような雰囲気で互いに意見を交し合う、大変充実した時間を過ごせたように思う。
 ただ、題材となる作品が非常に難解な内容であり、時間ギリギリまで物語の読解でほぼ手一杯となってしまった。そのため類似作品や後発に見られる影響といった系譜論的な推論、その他メタレヴェルの考察まで十分な発言をすることができなかった。本作は物語的な面白さやプロットの構成力・ドラマツルギーなどの技巧的な拙さは数多くあれど、大変射程の広い作品ということができ、系譜論的に見ても様々な論点を展開することが可能である。そこで個人的な補遺として、考えていたけれどあの場ではちょっと言えなかったことを、ここでまとめたい。


・子どものカルチャー・ホビーにおける解釈の必要性

 本作『ノーライフキング』が発売された1988年前後という時代におけるテレビゲームというものは容量も少なく、ゲームの中で語られる世界観というのは限界があった。結果プレイヤーに解釈を必要とするものが多く存在していた。本作はそのような時代背景がダイレクトに反映され、かつメインストーリーの肝として織り込まれている。
 読者は本作を読んでいて『ドラゴンクエスト』や『ゼルダの伝説』など、当時の様々なタイトルが頭の中に浮かんだことであろうが、ここでは少し視点を変え「解釈」という点に注目し、テレビゲーム以外の同時代的にヒットしていたある商品について少し触れたいと思う。「解釈」の要素がヒットの原動力となった「ビックリマンシール」である。
 物語がシールのイラストと、その裏面に書かれているわずかなテクストによって、ごく断片的に語られない「ビックリマンシール」(正確には「10代目・悪魔VS天使シール」「11代目・スーパービックリマン」)は、1980年代後半から1990年代初頭にかけて一大ムーブメントを築き上げた。物語の断片を求めてシールを買い子どもたちだけで意見を交換し合うという状況と、本作におけるメインモティーフとなるゲームソフト「ライフキング」を取り巻く様相との類似点を見出すことは容易い。おまけに「ライフキング」には複数のバージョンがあってそれぞれによってレアリティが異なるといった「射幸心を煽る」点まで一致している。
 このような物語で描かれる消費の仕方は、まさしく大塚英志の物語消費論に当てはまるところであり、またそこから派生した東浩紀のデータベース消費論などを引き合いに出してくれば、一層面白い議論を展開することができるであろう。ただ今回はそのような論点は少し脇におく。本作が登場した当時の子どもの文化において「『解釈』を肝としたヒット商品」があり、それを取り巻く構造は『ノーライフキング』の物語に色濃く反映されていること、基本的なことではあるが、それをしっかり踏まえておかなければ、本作以後の後発作品についてその類似性や影響について深く論じることができなくなるのだ。


セカイ系やJホラーなど、後発作品に与えた影響について
 
「第一回ちょこっと読書会 いとうせいこう『ノーライフキング』を読み解く(2ページ目)」

以上のリンクは、2年前ゆりいかさんがtwitter上で主催された『ノーライフキング』の読書会のまとめである。この2ページの後半で掲載されている、山川賢一(しんかい36)さんの発言を以下に引用する。

セカイ系?とかのルーツの一つはノーライフキングだと思うんだけど、これDVDないのかよ。http://t.co/6nlC91WA 電柱写りまくる無機質な都会の描写、日常の裏で営まれる、子供達だけが知ってる非日常のサバイバルゲーム、「リアル」というキーワード、などなど

ノーライフキングは呪われたテレビゲームの話で、リングよりも二年くらい早いはず。おそらく影響も与えていると思う。

Jホラーとセカイ系?とか言われる作品(ブギーポップあたりを含めて考える場合)は意匠がよく似ているんだけど、わりと同時発生的でどういう影響関係なのかよくわからなかった。ノーライフキングがすべての出発点にあり、そこから双方が別個に進化したという仮説はどうだ。いけるんじゃないか

Jホラーやセカイ系作品と関連付けて考察するしんかいさんの発言は、私の問題意識とかなり近いものがある。私も『ノーライフキング』を読んでいて、真っ先に思い浮かんだのが『リング』(鈴木光司だった。「テレビゲームのカセット」にしろ「ビデオカセット」にしろ共通していえることは、二者とも当時最新のメディア媒体であるということだ。そして、その内容について解釈すること、そしてその解釈が現実にかけられた呪いを説くカギになるという点まで、この二者は一致している。虚構が「呪い」という摩訶不思議な概念を以って、現実に対してダイレクトに影響を与える。そして現実の登場人物が、虚構の内容を「解釈」することで「解呪」する方法を探る。二作品に共通するこの物語の構造は明らかに「虚構と現実の脱構築」をプリミティブに志向しており、「虚構と現実の相互境界侵犯性」を読者は意識せざるを得ない。「呪い」がもたらす「死」というモメントを前に右往左往する物語に沿って織り込まれたこのような構造性を目の当たりにした読者が必然的に「実存の危機」というテーマを見出すことは、想像に難くない。
 ただし、二者には「物語の明瞭性」という相違点があることを抑えておく必要がある。『ノーライフキング』においては「呪い」と「死」の因果関係が曖昧で、そもそも何を以って「呪い」とするのかすら曖昧なまま物語が終わる。一方『リング』は「七日間という時間制限のうちに「呪い」を解かなければ、ビデオを見たものが死ぬ」と最初からはっきりと明示されている。ドラマツルギーも明瞭で、登場人物の言動もリアリズムを踏襲している。二者は構造こそ似ていれど、「解釈」と「死」という二つのモメントの関連性、及び「呪い」という概念の定義がまるで違うのである。
 分かりやすくいうと、後者のほうが明らかに「エンターテイメント」を意識した作風になっているということだ。一つの作品がエンターテイメントとして成立する要件というものは人によって様々だと思うが、私なりにある程度普遍的に認められていて共通し、かつ重要と考えられるものとしては「物語のプロットが明瞭であること」「登場人物に感情移入できること」の二つがとりわけ挙げられる。『リング』はその点がはっきりと前面に描かれており、それが本作の完成度に貢献し、多くの読者を牽引した原動力となったことは詳述するまでもない。けれども『ノーライフキング』は先に述べたように、こうした要件を忠実に守っているとは到底言い難い。(故に、「『ライフキングを解釈する子どもたち』という物語を解釈する読者」というメタ構造が生まれ、それが『ノーライフキング』という作品の特異性を浮き彫りにしているといえるのであるが)この差異性は興味深い。何故なら、上のセクションで挙げた『ビックリマン』にしろ、このセクションを挙げている『リング』にしろ、本作の周縁作品として挙げた作品は「エンターテイメントとしての完成度」という点で、本作と真逆のベクトルを志向しているからだ。このことは本作より十年後より開始されたブギーポップシリーズ』(上遠野浩平などにも共通することである。両者は「『死』と『子どもたちだけのウワサ』」というモティーフを核にした物語という点で一致しつつも、「プロット構成の巧みさ」「読者の自意識をくすぐる心理描写(=感情移入)」というエンターテイメント性を備えているか否かという点で両者はまるで異なる。

 まとめると、ノーライフキング』は構造とモティーフにおいて「死にまつわるウワサと解釈、箱庭的世界観」という魅力的な要素を示し、後発のクリエイターはそれを継承しつつも、同時にエンターテイメント性を加えることでオリジナリティを確保して、「Jホラー」「セカイ系」「現代伝奇」といったジャンルとして独自の進化を遂げていった、といったところだろうか。