作品における作者の自意識の発露と読者の共感について悶々
(前略)たとえば、ある作品を見て、「この作家は子どものときに傷ついている」などといわれてしまうのは駄目な作品だと思うんです。じゃあ何がいい作品なのかをいうのは難しいですが、向こうを、遠くを見せる作品と言うか、カント的にいえば「星を見つめさせる」作品ではないでしょうか。難しくいうなら、アルケオロジック(始原論的)ではなく、エスカトロジック(終末論的)な、ということですが。
谷川渥『書物のエロティックス』右文書院 P277
(美学者塚原史氏との対談においての発言)
この谷川先生の発言の前後には具体例が無いので、
「『この作家は子どものときに傷ついている』と分かってしまう作品」というのが、
どういう作品のことを指しているのかが、いま一つ分かりません。
ただ、その手がかりとなるんじゃないかという箇所はあって、
それは、本書の前のページにおける諏訪哲史氏との対談の一部分です。
日常生活をちょっと切り取ってうまく書けているとか、そういうリアリズムというのかな、感慨とか心情とかがうまくかけているとか、そういう小説はもう読みたくないんです。
谷川渥『書物のエロティックス』右文書院 P216
(小説家諏訪哲史氏との対談においての発言)
ようするに、こういうことじゃないかと私は思います。
「作者が、作者の自意識が、『分かってくれよ』という声が透けてみえてしまう」
というような作品というのは拙い、と。
ただ、多くの人に受け入れられるような作品って、
映画でもアニメでも小説でも音楽でもマンガでも、
ユーザーの「共感」を呼ぶような作品じゃないかと思うんです。
私がこのところずっと「カゲロウプロジェクト」なんて、
まさしく「自意識と共感」によって成り立っているムーブメントといえます。
勿論そうであるがゆえに、
そうした大衆娯楽は文学・藝術足りえないともいえますが……。
また、そもそも自意識を剥き出しにすることだって突き詰めれば、
太宰治などの新戯作派を例に取り上げるまでもなく、
立派に文藝足りえるものなのではないでしょうか。
全くまとまらないままですが、そんな、
我ながら未熟で拙劣な思弁を延々とめぐらしている今日この頃であります。
では、季節の変わり目に体調を崩されぬよう。
- 作者: 谷川渥
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(BGM:上原あずみ『無色』)