旅人の手記 三冊目 ‐ 蝉海のブログ -

日常のよしなし事や、マンガ・アニメ・ライトノベルなどのポップ・カルチャーに関する文章をつらつらと述べるブログ。その他の話題もたまに。とっても不定期に更新中。

「自分」という不可思議

 あなたは自分の存在を不思議だと思ったことはありませんか?

 恐らく誰しも一度は、こうした疑問を抱いたことがあるはずです。「自分はなぜ自分なんだろう」――何故自分は、この世界、この時代、この国、この街、この家に、自分は生きているのだろう、と。少し考えれば、これほど不思議なことはないのですが、人は成長するにつれて、その興味の対象を他者や外の事物に向け、「自己存在への疑問・自己存在の不可思議性」を忘却していくようになります。しかし、いくら外の世界に目を向けても、それらを認識する自分という存在の不可思議性というのは、消えてなくならないのです。自分という現実存在(実存)が、この世から消えうせない限りは。
 ただ私はどうも、この「自己の不可思議性」という疑問に対する関心が、他の人より強いように思えるのです。幼い頃に抱いてずっと不思議だと思っていたこの疑問が、大人になってもまだ強いままで今に至ります。自分という存在を不可思議なものだと知っているから、そうした不可思議さを説明付ける、魂とか真理とか神とか抽象的な不可思議性に原理に対して――余り現代社会に生きる人にとってなじみのないものに対して、無条件に関心が向くのではないかと、最近自分自身思うのです。

 ところで。こうした疑問を抱く精神の動きを表す便利な言葉に、「自意識」という言葉があります。なるほど、たしかに自分のことを気にしすぎて、他人の目が気になることを「自意識過剰」というのならば、自分で自分のことを気にしすぎるのは「自意識過剰」の尤もたるものだ、という意見は一見尤もらしく聞こえます。しかし、これは誤りなのです。
 「自意識」というのは、あくまで身体的特徴や容姿、口調、態度、性格といった、自己を構成する具体的な媒介物――簡単に言えば「見た目で分かるもの」に対して働かせる意識のことであり、統合された個体(ようするに「自分」)としての「自分の存在」に対する疑問とは、異なるモーメントなのです。これらを混同してはなりません。自分の存在性の不可思議さについて真剣に考えることを「自意識過剰」などと非難するのは、お門違いなのです。

 ちょっと抽象的過ぎる話でしたが、私は日がなこういうことばかり考えています。余り具体的な話をすることは、元来私は向いていないのかもしれませんね。
 また気が向いたらこの話の続きでも書こうと、思います。では。