旅人の手記 三冊目 ‐ 蝉海のブログ -

日常のよしなし事や、マンガ・アニメ・ライトノベルなどのポップ・カルチャーに関する文章をつらつらと述べるブログ。その他の話題もたまに。とっても不定期に更新中。

マンガ版『カゲロウデイズ』の結末におけるアヤノの決断が提示した「分裂と創造」というモティーフ

 じん(自然の敵)Pが展開するメディアミックス・プロジェクト「カゲロウプロジェクト」の一角である、マンガ版『カゲロウデイズ』が2018年2月発売の「コミックジーン 2019年3月号」を以ってその連載を終えた。そして今月の27日にその最終巻である13巻が発売された。
 マンガ・アニメ・小説・音楽と、それぞれ時系列が異なる独自の時間軸(ルート)を持った「ループもの」として展開される本作であり、今回迎えたマンガ版のルートの結末は、私がこれまで本作から感じ取ってきた「分裂」と「創造」というモティーフを、より確信へと至らせるものであった。

 

※ 以下の作品について、核心的な部分についてのネタバレがあります。
 
 マンガ『カゲロウデイズ』1-13
 (著・じん 作画・佐藤まひろ 刊・メディアファクトリー
 小説『カゲロウデイズ』1-8(著・じん 刊・エンターブレイン
 アニメ『メカクシティアクターズ

 

 

 マンガ『カゲロウデイズ』の結末は次のようなものである。

 

 アザミから分離した最初の蛇、「目が冴える蛇」との最後の決戦に臨むシンタローたち。激闘の末、マリーは祖母から受け継いだ「女王」の力でカゲロウデイズを現出させ、目が冴える蛇を閉じ込めることに成功する。けれども生存したのは、シンタロー、マリー、アヤノの三人のみで、他の子どもたちは全員目が冴える蛇に殺されてしまった。この状況を「敗北」と受け取ったアヤノは、マリーに提案をする。ひとつは、時間を巻き戻すこと。もうひとつは、以降のループにおいて宿主が経験した出来事を全て記憶する能力を持つ「目に焼き付ける蛇」にアヤノ自身がなり、シンタローに宿してもらうこと。これら二つである。
 かくして時間は巻き戻された。アヤノは、それから何度も巻き戻される時間を「目に焼き付ける」能力のなかの世界を通して、シンタローが経験してきたことを観測しかつ記憶し続けた。その中には、自分とは異なる存在である「アヤノ」がシンタローと会話するものもあった。そしてようやく、シンタローが「目に焼き付ける」能力のなかの世界へ到達し、二人は再開する。シンタローが自らの能力に覚醒し、「目に焼き付ける蛇」となったアヤノが消滅することを予感させ、物語は幕を閉じることになる。

 

 このマンガルートでの結末によって、アニメルートにおいての「目に焼き付ける蛇」に関する様々な謎が氷解させられた。「シンタローはいつ、どのようにしてマリーから目に焼き付ける蛇を受け取ったのか」「何故アヤノの姿をしてシンタローの前に現れるのか」「何故、宿主とは独立して人格を有しているのか」*1といった諸問題は、「アヤノが焼き付ける蛇になったから」ということで結論がついた。

 しかしここで同時に、読者は次のことに気づくことなる。
 それは「焼き付ける蛇」となったルート(マンガ第2ルート)のアヤノと、そのルート以後のルートで出てくるアヤノは、それぞれ独立した存在であり「別人」であるということだ。考え方としては、「時間渡航者が過去に行って未来を変えると並行世界が生まれてしまう」タイプのタイムトラベルものにおいて、その時点から過去の時間渡航者が独立した別の存在になってしまう、といったケースに近いのだろうか。ともかく「焼き付ける蛇」となったアヤノが観測している、その後の時間軸の世界のアヤノは、「分裂」していると言わざるを得ない。
 
 実はある解釈を取ると、この「目に焼き付ける蛇のアヤノ」は、アニメで登場する以前に『ロスタイムメモリー』のMVにおいて登場していることになる。

 

www.youtube.com

 

『ロスタイムメモリー』の3番サビの部分(上記動画の3:46以後)の舞台となる教室。ここはマンガルートの描写に準拠するならば、「焼き付ける」能力のなかの世界ということになる。そしてここでシンタローが会うアヤノは「屋上から飛び降りたアヤノ」ではなく、「目に焼き付ける蛇となったアヤノ」ということになる。この解釈に従えば当然のことながら、歌詞の中に出てくるセリフも後者のアヤノのものということになる。そして「死んじゃった、ごめんね」というのは「屋上から飛び降りた」ことではなく「命を代償にして蛇になってしまったこと」であり、「『サヨウナラ』しようか」というのは「カゲロウデイズ入りしたこと」ではなく「完全に能力に覚醒したシンタローがこの能力の内的世界に入ることはなくなる(時間が巻き戻らなくなる)」ため……、という解釈は考えられないだろうか。

 また『アディショナルメモリー』のMVにおいて、覚醒したマリーの目の前でアヤノの首筋から蛇が生えている描写(下記動画、2:45)があるが、これもマンガ第2ルートのアヤノかもしれない。マリーに頼み、「目に焼き付ける蛇」となったことを意味しているのだろう。*2

 

www.youtube.com

 

 さて。ここからようやく本題に入りたい。
 周知のように、「カゲロウプロジェクト」という物語のなかでは、このような人格の解離や、別の人格の憑依、ある登場人物が別人だと思っていた人物と物が実は同一人物、といった描写が何度となく描かれてきた。榎本貴音とエネ、九ノ瀬遥とコノハ(目を醒ます蛇)、目が冴える蛇による憑依などである。このようなカゲプロの作中における「分裂」は、一体何を表現しているのだろうか。

 それは、「『創造』を志向する分裂」と「『破壊』を志向する分裂」の戦いである。

 貴音、遥、アヤノ、彼らの人格の分裂は全て、「自分」や「世界」の連続性を終わらせたくないと願い、引き起こった(引き起こした)ものである。そもそもにして全ての蛇は、アザミが望んだことを叶えるために、独立した存在として誕生した存在であって、分裂が創造を意味する、というモティーフはこの作品の根底を支えている土台とすら言えるのだ。もっというと、「子どもを産む」という行為自体が、「ひとつのものから分裂し、独立した存在を誕生させる」という行為なのである。「カゲロウプロジェクト」では、子どもたちの過去のエピソードで「親子」の関係が描かれることが多いが、「親子」や「家族」というのはまさしく「創造の分裂」の生産物なのである。

 このような「創造」の分裂に対して、真っ向から否定にかかるのが「目が冴える蛇」である。

 世界(宇宙?)が生まれる前、アザミから最初に別れた彼は、アザミの「自分が何者なのか知りたい」(『カゲロウデイズ』12巻 p.63)という「望み」から生まれた。その望みを叶えるためアザミは、自分を映す鏡としてこの世界を作り出した。だがアザミは、その世界のなかでツキヒコと出会い、家族をつくったことで関心が他者へと向かい、やがて「望み」を忘れてしまう。望みを叶えることが本懐である目が冴える蛇は、忘れられた存在となってしまい、絶望に陥る。そして彼は、「この世界は主を映すに相応しくなかった」(同掲書 p.67)と独断し、「この世界をゼロに戻すこと」を目的とするようになる。彼の作中における破壊活動は、この目的に収斂されるのだ。
 世界が生まれる前に戻す、という究極の胎内回帰願望を抱く「目が冴える蛇」は、未来を創造しようと時間を巻き戻す子どもたちと、真っ向から対立する。「『破壊』を志向する分裂」は、最終的にゼロに行きつくというわけである。

 

 こうした「分裂」をモティーフとした「破壊と創造」の二概念によるコンフリクトは、先史より人間が作り出す神話や文芸作品における軸とされてきた。マンガ『カゲロウデイズ』におけるこの結末――「目に焼き付ける蛇と化したアヤノ」と「それ以後の独立した人格のアヤノ(屋上から飛び降りてカゲロウデイズ入りして目を掛ける能力を手にいてたアヤノ)」という「分裂」を描き幕を閉じるというこの結末は、「カゲロウプロジェクト」という作品全体がそうした神話的構造を志向しているということを示す根拠を、読者に対し改めて提示したとはいえないだろうか。

 

*1:ただし、同じように宿主とは独立した人格を有する、目を醒ます蛇(コノハ)、目が冴える蛇については、人格を獲得した詳しい原因が未だ不明瞭なままである。

*2:しかし、そうであるのならば制服姿ではなく、マンガ第2ルートで着用し続けた白のワンピースを着ているはずである。このような矛盾は、『ロスタイムメモリー』に対する上述の解釈にも言える。けれどもマンガ版最終話「メカクシティアクターズ」において、「目に焼き付ける」能力の世界でシンタローと再開した蛇と化けるアヤノは制服姿であり、教室でマフラーを渡す際(『カゲロウデイズ』13巻 p.136)には、白のワンピース姿に変わっている。こう考えると、このような矛盾は些細な誤差の範疇なのかもしれない。