旅人の手記 三冊目 ‐ 蝉海のブログ -

日常のよしなし事や、マンガ・アニメ・ライトノベルなどのポップ・カルチャーに関する文章をつらつらと述べるブログ。その他の話題もたまに。とっても不定期に更新中。

『ずるさ』のあるズレたコード――『ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート』

 ありがちなようで不思議な物語を読んだ。或いは、全てのコードがちょっとずつズレている。しかし、間違いなく面白い。どれだけエクリチュールを重ねても妥当とはいえないが、その中でまず伝えたい本書の初読の感想はこんなところだと思う。
 本作は一体、どのようなジャンルの小説といえるのだろう。青春もの、音楽もの、ホラー、ミステリー、恋愛、バトル・ロワイヤル(サヴァイヴ)もの……それぞれの定番の要素はきちんと踏まえている。けれども、それらが少しずつズレていきながら、この奇妙な物語は綴られるのだ。音楽の用語で言うならば「ミクスチャー」や「オルタナティヴ」という表現がふさわしいように思える。

 勿体ぶってないで、物語の概要に軽く触れることにしよう。
 舞台は現代日本。しかし作中の世界では、普通の人間の中に二つの異界の存在が紛れ込んでいる。一つは、死ぬとこの世から存在した形跡が抹消されるが、死体は腐らず数年後に復活する「イケニエビト」。二つ目は、彼らを殺して記憶を奪う能力を持つ「タマシイビト」。けれども、イケニエビトの存在の抹消には例外があって、そのイケニエビトがかに殺された場合、その加害者だけが彼・彼女のことを憶えているという。
 本編では、栄原実祈(さかえばらみのり)というイケニエビトの女の子を主軸として、左女牛明海(さめうしあけみ)と神野真国(こうのまくに)という、三人の恋愛とも友情ともとれない関係がメインに描かれていく。物語の始まりは、高校生の明海が同学年の真国にある日、「中学のとき、一緒にバンドを組んでいた女の子を殺したことがある」と告白されたところから始まる。すると明海のほうも「自分も小学校のときに同じ子を殺した」と打ち明けたのだ。そして彼らは、実祈が埋まっている場所へ掘り出しにいくのだが……。

 以下、本編の内容を踏まえながら、思弁的な考察を綴っていきたいと思う。


・ コードのズレが激しくも淡々と進む「プロローグ〜一章」

ひとつ、イケニエビトは殺した人だけがそのことを覚えてる。
ふたつ、イケニエビトは殺してもたったの数年でよみがえる。
みっつ、タマシイビトは人の記憶をむしゃむしゃ食べる。
よっつ、タマシイビトはイケニエビトを好んで食べる。
いつつ、イケニエビトの歌は遠い国からやってくる
むっつ、イケニエビトは自然とこの世に紛れ込む。
ななつ、タマシイビトは歌声聞いてやってくる。

森田季節ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート』(以下同)

 本作は「プロローグ+本編四章+エピローグ」という構成になっており、この文句はプロローグの前に付記されたものである。何も分からない状況でこうしたルーリングが唐突に叙述されているところから、一瞬「バトル・ロワイヤルもの+ホラー」ではないかと錯覚させられる。しかし、そのような先読みは一章目のエピソードで完全に粉砕される。
 最初に述べたように、本作では様々なジャンルのコード(共通認識要素)を横断しながら物語が展開されていく。イケニエビト・タマシイビトという奇怪な存在はホラー、またそれらの謎に迫っていくのはミステリー、その設定の下地にあるものはバトル・ロワイヤルものとの親和性があり、日常描写におけるバンド活動や恋愛感情は青春もの、といった風にだ。そして、この触れ幅は一番デカいのが一章である。
 まず最初に出てくる、視点主人公の明海の言葉が意味深だ。

「焼いたフルーツってずるい味がする」

 上記のセリフは、焼きパイナップルを食べる明海が同級の男子に言った感想である。この一文は、作品全体の雰囲気を体現しているといってよい。明海は「要領を得ていない表現」と本文中で述べているが、そのような「要領を得ていないこと自体」を、「計算高く(ずるく)」本作は構成だてられているのである。
 まず「ずるい」という言葉だが、これは「狡猾」(計算性)とも「不正」(ズレ)という意味とも両方取れる。そして「焼いたフルーツ」が「『死』のメタファー」であることは、プロローグ及びその前のイケニエビトのルーリングを読むに、ほとんどの読者が気付くであろう。だが、それ自体にこのセンテンスの「ずるさ」がある。焼かれることが「死」なら、生のまま食される果物は、果たして「生のメタファー」と単純にいえるのか。これは、衛生学的な条件でないことは言うまでもなく、想像力の問題である。この「生と死が矛盾し合い、両義性を提起するもの」としての「フルーツ」というメタファーは、本作全体における「計算された矛盾」や「ズレるジャンルのコード」を暗喩しているのではないかと、私は考える。
 私情を挟むと、私はこの一文を読んで直感的に「この作品は確かに受賞作だ」と閃くものがあった。そしてその直感は、最後まで読んで確信に変わった。「小説は冒頭によって、その出来の良さが左右される」という話はよく耳にするが、著者がそれを計算した上でこのような一文を冒頭に持ってきたのだとすれば、まさに「ずるく」そして心憎いセンテンスであるといえよう。

 話を本編に戻す。この「ズレ」としての「ずるさ」が最も露骨に表れているのが、一章なのである。このズレは、明海と真国が実祈を掘り出す場面で頂点に達する。普通、こうしたオカルティックな設定の作品ならば、序盤に「埋めてあった場所に死体がない」などといった、大きな事件起こす(「起」から「承」へつなげる第一の山場)ものだ。しかし本作では、そのイケニエビトの少女はごく普通に起き上がるのだ。そして、真国も淡々と反応する。

 神野君は無言で汚れた頬に手をあてた。それを合図にするように実祈の目がぱちっとひらいた。
 実祈の第一声は「ふわ〜あ」ちいうあくびだった。
「烏子*1、久しぶり。三年ぶりだね」
 神野君は割と冷静に言葉をかけた。そこには見知った者同士の心
安さがあった。

まるで、友人をうたたねから起こしたとでもいわんばかりの会話だ。一応この場面の前に、明海の「涙腺がゆるみかけ」たという独白はあるのだが、実祈の起きたときの印象が強烈過ぎて、薄れてしまっている。この圧倒的な「脱構築的構造性」に、私はここまで読んで次の展開が予想できなくなった。次はどう「ズラされるのか」と。


・ ズレの修正と再振幅「二章〜三章」

 けれども、ここまでの強烈な振り幅は二章で一旦収まることになる。
 二章では、明海の実祈との出会いと別れが回想されるのだが、そこでは「日常のなかに飛び込んできた非日常と冒険し、また日常に変える小さな少女」という至って正統派のジュブナイルが描かれる。夏の学校で引き起こされる陰湿なイジメのシーンや、転じてタマシイビトが作り出した誰も居ない結界の街で明海と実祈が遊びまくるエピソードなども、この手のジュブナイルでは定番の描写だ。
 その後、二章〜三章の前半で描かれる明海と実祈のやり取りや、真国を交えた学校生活や趣味の音楽の描写も、「青春モノ+ちょっと不思議」の範疇を出ていない。唐突に挿入される「藤原君」の怪談(後述)を除いて。これはまるで、一章の揺さぶりを鎮めて、読者を安心させるかのような構成である。

 そしてこのような、少しおかしくも楽しい日常は三章の後半で再び揺さぶられることになる。「藤原君」の生まれ変わりが真国で、彼はイケニエビトだったという真相の発覚。そして、真国に迫る二人のタマシイビトの存在。直後、この世から生きた証が抹殺され、明海の記憶から真国の存在が完全に消される(ここでプロローグとつながる)という、怒涛の展開が待ち受ける。
 しかし、ここでそれまでの「イケニエビトの死」の描写とは明らかに違う現象が起こる。実祈だけは、真国のことをおぼろげに憶えていたのだ。そして、手元に残された「コウノマクニ」と名前が入ったライブチケット。これらの情報から明海は、真国の死を「タマシイビトの仕業」と直感し、真国が存在したという実感が湧かないまま、タマシイビトに対する怒りだけが高まっていくのであった。
 そして明海と実祈は真国の仇を取るため、タマシイビトへの復讐を計画するのである。「コウノマクニ」という存在を都市伝説として流布し、彼のことを歌った楽曲を阿弥陀峰の中腹で演奏して。


・ ズレが意志によって収斂される「四章」と再びズレ始めて終わる「エピローグ」
 そしておびき寄せたタマシイビトを殺して復讐を達成した二人は、「コウノマクニ」のライブチケットを埋葬することにした。けれどもそのとき、チケットの入った封筒に手紙があることに実祈は気付き、それを読み上げた。明海は未だに真国のことが思い出せないのだが、手紙を読み上げる実祈を見て、何故か涙が溢れてきた。

 私は泣いていた。悲しくもなんともないのに泣いていた。神野君の顔も思い出せないんだから。涙は無責任に私の頬を垂れて、土にしみこむ。
 私は魔性の女だな。
 悲しくもないのに泣くなんて。
 悲しくもないのに泣くなんて。
 悲しくなくたって泣いてやろう。神野君のために。

ここでも「ズレ」は機能している。憶えてない人物のために、悲しみも覚えられないのに泣く明海という描写と、その後の独白からは「意志の脱境界性」が読み取れる。根拠・事実の「ある・なし」に関わらず、感情ではなく意志が明海の肉体を動かすのだ。意志はそれ自体が根拠となる。この場面はそれまで描かれてきたコードのズレが、収斂されているようだ。コードがズレても、物語は奏でられると主張せんばかりに。

 だが、終結部(コーダ)を迎えたように思えるこの物語は、最後に思わぬポスト・コーダが加わり、読者は再び揺さぶられ、宙に浮かされるのだ……。タマシイビトの復活と、明海に対する予想外の謝罪によって。そして、明海と実祈の日常はこれからも続くことを暗示し、この物語は終わる。


・ 総括になっていない総括

 本編の構造的なズレを追ってきたが、やはり本作は捉えどころのなさを感じずにはいられない。あらゆるジャンルの定番要素を詰めておきながら、それらが全て少しずつ「ずる」く「ズレ」ていくために、どうまとめていいかわからない。しかし、最初にも述べたように明らかにこの作品は面白く、そして極めて精緻な文章がその魅力を支えている。これもまた、「耐久度のあるテクスト」を湛えた作品の一種であろう。
 本作におけるズレは、「ジャンル論争」という外部の自称に対しても、オルタナティブな効用を発するのではないかと私は考えている。この物語のアンチジャンル性は「『ただのラノベ』ではない」という分かっているようでまるで具体性のない凡庸な雑感も、それに反応して「テンプレ」の押し売りをする自称批評家、その両者にアイロニックな返答をしているように、私は考える。
 プログレ的な転調を繰り返す上質なミクスチャー、或いはオルタナティブ・ロックを聴いているような一冊だったように、私は振り返らずにはいられない。

(BGM:ベネズエラ・ビター『イケニエビト』)

*1:実祈が神野と出逢ったときに使った別名。