旅人の手記 三冊目 ‐ 蝉海のブログ -

日常のよしなし事や、マンガ・アニメ・ライトノベルなどのポップ・カルチャーに関する文章をつらつらと述べるブログ。その他の話題もたまに。とっても不定期に更新中。

『劇場版まどマギ』は「ループもの」そのものに対する叛逆だった

先日ですが劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』を、
TSUTAYAでDVDを借りてきて鑑賞しました。
物語は完全に本編と繋がっているため、
アニメ視聴者か総集編の劇場版二作品を鑑賞した人向けになっています。

まず総評からいくと、演出や特殊効果が本編以上にスゴかったです。
正直これだけでも観る価値があるくらいです。
物語自体は、本編にあったサヴァイブ的な要素などを極力排除して、
純粋に少女たちの思惟や感情のみを抽出しており、極めて抽象的な感じでした。
そのため、本編で前面に出された
露悪的な表現や生々しい描写が引っかかった人ほど、
観て欲しいかなと思いました。

ここから、ネタバレありの感想です。

本作で何よりも驚いたのが、最終的に本作の実質的な主人公であるほむらが、
「ループによる時空回帰を肯定」するというクライマックスです。
ループものはケン・グリムウッドの『リプレイ』(1987)以来、
脱出することを前提や目的とするのが定番となっておりまして、
過去に戻ることによる改変をタブーとするのが暗黙の了解となっていたのです。
(これはループものに限らず、『時をかける少女』などのタイム・リープものも含め、
 多くのSF作品で描かれてきた神話素(ミュトス)です)

本作もアニメ版の方は、
まどかによる「魔法少女」というシステムの改竄を肯定しつつも、
「改変による喪失」という業(カルマ)を背負う形で物語を閉じました。
そこでは結局、完全な形での回帰は否定されているのです。
けれども、この『叛逆』ではそれをやっちゃった。
ほむらが円環の理から、原理の中核であるまどかをサルベージし、
さやかやなぎさなど魔女化した魔法少女を現世に戻してしまった。
これはまさに「叛逆」というタイトルに相応しい結末といえるでしょう。

一応、続篇も作ろうと思えばできる締め方ともいえますが、
私はここで終わりにして欲しいと思います。
そうしなければ、ほむらの行った「叛逆」の重みは削がれてしまうでしょうから。

個人的な感想をいうと、私としては
「破綻した秩序を破壊し新たな秩序を構築するには、自己犠牲が必要だ」
という押し付けがましい命題が貫かれたアニメ版の結末よりも、
「いかなる高尚な理想があろうとも自己犠牲を全否定し、
 一人でも多くの人間が幸福でいられることを実現しようとするエゴを貫く」

こちらの結末の方が好みです。
正直、この作品はアニメ版だけだと余り好きになれなかったのですが、
本作で少し好きになれたようにすら思えます。

色々な意味で、観て良かったと思える秀作でした。

(BGM:Kalafinaひかりふる』)