旅人の手記 三冊目 ‐ 蝉海のブログ -

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三島由紀夫による〈外面―表面への意志〉と美的死生観(前編)

序文

 三島由紀夫は、内面の外面への還元、及び両者の合一という問題に対し、その命を以って敢然と挑んだ作家であった。
 通例、人間をして内面とは精神のことであり、表面とは肉体のことを示す。このような「内と外」の二元論はソクラテス以来、西洋において近代になるまでイニシアチブを得ていた思想であり、外=肉体のような感覚的なもの、具体的なものは、崇高なる精神より劣るものと考えられてきた。ところがそのような二元論は19世紀に入ると、人間の活動及び人間そのものの本性を「物質」(マルクス史的唯物論など)や「実存」(ニーチェ実存主義など)、即ち一元的なものへ還元されると考える思想の現れにより、その絶対性を粉砕されることになるのである。このような西洋における「内と外」の思想史を、日本の伝統的な文化観と照らし合わせ、その合一を外面、「肉体」に本質を帰依させることで、自らの理念を透徹させる研鑽を、三島は生涯続けた。
 そのような試みは、処女作『花ざかりの森』から晩年の大作である『豊饒の海』まで、一貫して行われたことである。内部とは何か、外部とは何か、相互侵犯し合うそれらが合一した先に、いったい何があるのか……、そうした三島による美学の構造と体系を、美学者である谷川渥が三島由紀夫の美学について論述した文章である「薔薇と林檎」(『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』収録)と「三島由紀夫のバロキスム」(『肉体の迷宮』収録)の解釈を叩き台にした上で、思弁的に熟考していくことにしよう。


本文

三島由紀夫の肉体論――外面の絶対性
 三島由紀夫の外面に関する思想は、彼の初期作品において既に見受けられることができる。例えば、三島の最初の外遊記である『アポロの杯』(1952年)では次のように記されている。

 希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教は「精神」を発明するまで、人間は「精神」なんぞを必要としないで、誇らしく生きてゐたのである。希臘人の考へた内面は、いつも外面と左右相称を保つてゐた。希臘劇にはキリスト教が考えるやうな精神的なものは何一つない。それはいはば過剰な内面性が必ず復讐を受けるといふ教訓の反復に尽きてゐる。

三島由紀夫『アポロの杯』(斜線部、原文傍点)

 谷川はこの一節について、「外面と内面という二元論における外面の称揚。外面が肉体であり、内面が精神であるとすれば、外面の称揚はとりもなおさず肉体の称揚である。とはいえ、この段階で三島はまだあからさまな肉体賛美に踏み込んでいない。『精神』や『感受性』の過剰を嫌悪しているだけである。*1」と、述懐している。この見解に関して異論はない。キリスト教的な、精神に対する過剰な「盲信」を否定し、外面と内面を相対化した上で外面の優性を誇るのは、三島の美学における出発点と見ていいだろう。このような外面=肉体への執着は、彼が『アポロの杯』を執筆する3年前に書いた中篇『仮面の告白』(1949年)において、雄弁に語られている。

 『仮面の告白』の主人公は、父親のイタリア土産である画集に収録されていた、グイ・ド・レニの《聖セバスチャン》を発見する。そこには、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの近衛兵であった聖セバスチャンが、密かにキリスト教を信仰していたために、処刑される様子がありありと描かれていた。それを見た主人公は、激しい性的恍惚を覚える。そして辛抱たまらなくなり、思わず〈ejaclatio〉をしてしまうのであった。

矢は彼の引緊った・香り高い・青春の肉へと喰い入り、彼の肉体を無常の苦痛と歓喜の焔で、内部から焼こうとしていた。しかし流血はえがかれず、他のセバスチャン図のような無数の矢もえがかれず、ただ二本の矢が、その物静かな端麗な影を、あたかも石階に落ちている枝影のように、彼の大理石の肌の上へ落していた。

三島由紀夫仮面の告白」――『三島由紀夫全集』(中央公論社 版)

ジェノヴァのパラッツォ・ロッソに収録された《聖セバスチャン》を、写真で観てみる。すると、引き絞られた白く美しい裸体とそれを貫く二本の矢が、即物的なまでにただただ描かれていることが確認できる。射られたところから血が出ることはなく、両手を吊り下げられた聖人の表情は安らぎに満ちていた。なるほど、たしかに主人公の述べるようにそこには、「布教の辛苦や老朽*2」などといった精神の過剰が介在する余地はなく、「ただ青春・ただ光・ただ美・ただ逸楽*3」があるのみである。
 ここに、外面の絶対性という三島の美学を見て取ることは容易であるが、ことさら問題として取り上げたいのは、「彼の肉体を無常の苦痛と歓喜の焔で、内部から焼こうとしていた」という一文である。
 矢は、聖セバスチャンの肉体へ突き刺さっている。しかしこの事実自体に、「無常の苦痛」も「歓喜の焔」もない。それらは内部から湧き出てくるものである。つまり、外部の刺激は内部へ到達することで、外部ははじめてそれを「苦痛」や「歓喜」として感覚するのである。この〈外面→内面→外面〉という還元的な知覚プロセスから読み取れることは、「痛み」や「恍惚」といった感情は表面に宿るということである。そこに外面の絶対性が加われば、この《聖セバスチャン》のエピソードが示すところは、「感覚の絶対性」を訴えることに帰結するのだ。

 さて。《聖セバスチャン》において、描かれた主体における〈外面→内面→外面〉という認識プロセスを、観る側に想起させる視覚的媒体は、「左の腋窩と右の脇腹に箆深く刺された矢*4」のみであった。通常、矢や刃などが肉体に突き刺さった人物を描かれる場合、その人物の「痛み」を表す媒介物は、次のようなものが考えられる。苦悶の表情、汗、痙攣する肉体、……そして創から流れ出る流血。グイ・ド・レニの《聖セバスチャン》には、この流血は描かれていなかった。しかしこの血は、三島の美学を語る上で欠かすことのできないファクターだ。血は〈外面→内面→外面〉という認識プロセスを形而下に引き降ろし、かつ刺突のような外面による内面への侵入と、内面から外面へ還元される痛みという、知覚のモメントを媒介する。
 この内部と外部の媒体としての「血」という問題について、三島は『仮面の告白』において極めて猟奇的な形で叙述している。主人公の「引緊った・香り高い・青春の肉」への欲望は、やがて中学の同級生へ向けられることになる。中学四年の時に貧血症に陥った主人公は、ある日嗜虐的な夢を見る。それは、大皿に縛り付けられたたくましい同級生B(主人公の意中の同級生である、近江のことだと思われる)を、特大のナイフとフォークで切り刻むというものだ。

 私は心臓にフォークを突き立てた。血の噴水が私の顔にまともにあたった。私は右手のナイフで胸の肉をそろそろ、まず薄く、切り出した。……

(同上)

 何ともサディスティックな場面である。「琥珀色の盾のような胸*5」から噴き出た血は、同級生の劇痛の媒体であり、それを主人公が満足そうに嗜む様子が、ありありと目に浮かぶ。内部に流れる血は出でることによって、これもまた外部、表面となる。血は内部と外部を合一させる媒介にして、自ら外部へ還元されるのだ。しかしこの「血」と「肉」という問題をもっと深く追求するには、「内臓」と「皮膚」というもう一つの内部と外部の問題を取り上げなければならない。


・ 肉体と精神、又は薔薇という比喩。そして、内外合一のファクターとしての血

 流れ出た血が表面として認識されるのならば、皮膚と肉に覆い隠された内臓にも同じことが言えよう。
 『金閣寺』(1956年)に、次のような一節がある。吃音の主人公は大阪で空襲に遭遇し、「腸の露出した工員が担架で運ばれてゆく様*6」を見た。

なぜ露出した腸が凄惨なのであろう。なぜ人間の内部を見て、悚然として、目を覆ったりしなければならないのであろう。なぜ血の流出が、人に衝撃を与えるのだろう。なぜ人間の内臓が醜いのだろう。……それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか。

三島由紀夫金閣寺」――『三島由紀夫全集』(中央公論社 版)

 血は、外に飛び出た内臓は、一度外に飛び出せば皮膚と同質の表面性を顕示する。露出した腸は「内側と外側の二元論を無効*7」化し、「逆説的な表面の肯定」*8を主張しているのだ。この内部と外部という境界の危うさを体現する工員の肉体を見た主人公は、そこから「薔薇の花」を連想する。

内側と外側、たとえば人間を薔薇の花のように内も外もないものとして眺めること、この考えがどうして非人間的に見えてくるのであろうか? もし人間がその精神の内側と肉体の内側を、薔薇の花弁のように、しなやかに翻えし、捲き返して、日光や五月の微風にさらすことができたとしたら……

(同上)

この薔薇という花は三島の美学体系を語る上で、重要なシンボルとなっている。薔薇の花弁は何重にも渦を巻いていて、どこまでが内か、どこまでが外なのかという判断を惑わせる形態をしている。血と内蔵にまみれた表面は、内部による外部への氾濫だ。その比喩としての薔薇の花。薔薇は、内部と外部の混沌・合一から生まれる「表層の美」とは何かを、最も明白に表してくれる。

 さて。『金閣寺』を執筆する1年前に、三島はこの薔薇をタイトルに冠する戯曲『薔薇と海賊』(1958年)を制作している。知的障害者の無垢な青年帝一と、彼が憧れる童話作家の楓阿里子との恋愛を描いた本作は、意味深な会話や不可思議なエピソードが幾重にも挿まれて構成されている。

帝一 (わが胸を押へて)ここでテクタク、時計みたいに動いてゐるものがハートだね。
楓 でもそれは冷たい鐡と硝子の時計ぢやなくて、熱い肉と血でできた時計なの
帝一 それぢやその時計、生きてゐるんだね。
楓 さう、生きてゐる時計。でも早くなつたり遲くなつたりする。時を知らせる時計ではなくつて、心をしらせる時計ですから。

三島由紀夫薔薇と海賊」――『三島由紀夫全集 22』(新潮社 版)

 心臓が「熱い血と肉でできた時計」という比喩。この例えは、先の『仮面の告白』であげた嗜虐的な夢を思い起こさせられよう。琥珀を思わせるような滑らかで均整のとれた肉を貫き、心臓を突き刺す特大のフォーク。それは彼の命の否定、心の否定、即ち人格の否定だ。この暴力とエロティシズムという問題について三島は、後年における東大全共闘との討論(1969年)で、両者の共通性を「他者の必要」と「他者の意志の否定」にあると言及している。「心」と「命」という人格性の核である概念を破壊するという「私」の夢想が、ひどく淫らなものに思えるのはそのためだ。嗜虐とはエロティシズム(=精神的モメント=内部)と暴力(=物質的モメント=外部)の合一であり、それは内臓や血の流出によって顕在化されるのである。

 話を戻そう。この帝一と楓の会話で注目したいところはもう一つあり、それは楓の言う「時」と「心」が二つの時の概念を、暗喩しているということである。「時」の概念は、およそクロノス(Καιρός)とカイロス(Χρόνος)の二種類に分けられると考えられよう。これらは二つともギリシア語で「時」を表す単語であるが、前者が一定の速度で流れていく客観的で絶対的な「時間」を意味し、後者は主体の感覚による時間の進み方を表した主観的で相対的な「時刻」を示す。そしてこの二者の関係は、次のように捉え返すことができる。クロノスが無機的に進むX軸とすれば、カイロスはそれを有機的(主体的)に断つことのできるY軸という風に。楓の言葉を、この二つの時間概念に置き換えるとすれば、「時」とはクロノスのことを意味し、「心」とはカイロスのことを意味すると考えられよう。時を認識するのは、心(=意識)である。人が時を意識するということは、「今」を意識するということだ。つまり、「現」実に存「在」する自分を意識することで、人は「時」をというものを認識している。故に、カイロスは今を指向する概念と言える。
 さて、ここで一つの問題があがってくる。それは、そもそも「客観的で絶対的な時間であるクロノス」などは、存在するのかということである。もし客観的で絶対的な時間があるとすれば、それはヘブライの神が取り決める「時刻」(=カイロス)の言い換えに他ならない。しかし、神は誰も知覚できない。故に、神は各主体の「内面=精神」にしか存在し得ない。ところが三島は、先に上げた『アポロの杯』で精神の優位を激しく糾弾している。さすれば神も、神の時間=クロノスの存在も、三島の世界観においては否定されることになるだろう。すると、三島の主観的世界で存在を許される概念は、カイロスのみになる。時間はそれぞれの主体ごとに、相対化されて感じ取られることになるのだ。そしてカイロスは「今」を指向していることを、先に述べた。すると、三島の時の捉え方は「現存性」と「相対性」を、原理にしていることと考えられる。
 このような「今」の至上性は、三島の作品・文章の中でいくつか見受けられることができる。彼は晩年のエッセイ『若きサムライのために』で、「未来を信じる奴はダメ*9」と真っ向から否定している。「未来を信じる奴は、みんな一つの考えに陥る。未来のためなら現在の成熟は犠牲にしたっていい。」こうした考えを、三島は現在を意識することを何よりも大事なことと考える故に、切って捨てているのだ。

小説家にとっては今日書く一行が、テメエの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、どうして今日書く一行に力がこもるかね。その一行に、自分の中の集合的無意識に連綿と続いてきた〝文化〟が体を通してあらわれ、定着する。その一行に自分が〝成就〟する。それが〝創造〟というものの、本当の意味だよ。未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。

三島由紀夫「若きサムライのための精神講話」――『若きサムライのために』

 さて。この世の時間が全て主観的であり、相対的であるのならば、カイロスが断ち切るのは同じく、別の主体(他者)のカイロスになるであろう。拡張する自己の意識は、やがて同じく拡張する他者の意識と衝突することになる。そこでどうにか折り合いをつけながら、私達の日常というものは平穏を保つことができるのだが、自意識を最大限に発現するとすれば、他者のカイロスを強引に断ち切ることもあるだろう。その発現の形式が「暴力」であり、その最高の形態が「殺人」なのだ。自らの意志が、他者の意志を完全に断ち切ってしまうのである。『仮面の告白』で、「私」が夢の中で同級生の「心の時計=カイロス」を壊してしまったように。

 この「死」と「暴力」と「美」という問題は、『仮面の告白』や『薔薇と海賊』よりさらに初期の作品である、『中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』(1943年)で既に提起されている。

能若衆花若を殺害。その唇はつややかに色めきながら揺れやまぬ緋桜の花のように痙攣する。能衣装がその火焔太鼓や桔梗の紋様をもって冷たく残酷に且重たく、山吹の芯に似た蒼白の、みまかりゆく柔軟な肉体を抱きしめている。私の刀がその体から引き抜かれる。玉虫色の虹をえがきつつ花やかに迸る彼の血の為に。

三島由紀夫「中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」
――『花ざかりの森・憂国

その極めて背徳的且つ耽美的な情景もさることながら、ここでは若衆の「衣装」と「肉体」の関係に注目したい。「みまかりゆく柔軟な肉体を抱きしめ」る華やかな「能衣装」、内面である前者と外面である後者は、他者の暴力的な介入によりその境界を崩壊させられた。その乱れた姿は実に蟲惑的に表現され、エロティシズムと暴力の合一による嗜虐的な美を体現している。そして「玉虫色の虹」を描く「迸る血」は、その媒体に他ならない。
 この「衣装と肉体」という関係について本作は、さらなる追求を試みている。

遊女紫野を殺害。彼女を殺すには先ずその夥しい衣装を殺さねばならぬ。彼女自身にまで、その衣装の核――その衣装の深く畳みこまれた内奥にまで、到達することは私にはできない。その奥で、彼女は到達されるまえにはや死んでいる。一刻一刻、彼女は永遠に死ぬ。百千の、億兆の死を彼女は死ぬ。――

(同上)

 幾重にも遊女を包み込む衣装の氾濫。それは、華やかな衣装を着た遊女の美が総体にして個体であることを示し、どこか薔薇の花弁を連想させるものがある。

……彼女が無礙であればあるほど、私の刃はますます深く彼女の死にわけ入った。そのとき刃は新しい意味をもった。内部へ入らず、内部へ出たのだ。

(同上)

 先に名を上げた谷川は別著『肉体の迷宮』において、「内部と外部との素朴な二元論を危うくする『内部へ出る』という表現。……それが早くも薔薇の存在を要請する*10」と、この一節を読み取っている。この薔薇と三島作品の関係から、『豊饒の海(三)暁の寺』で綴られる「薔薇」の観念的解釈を取り出して、「内部と外部」という問題に対し一気に結論へ向かうことはできる。だが、そのような方法は『肉体と迷宮』における一論文「三島由紀夫のバロキスム」で取られているものであるため、私としては早急に結論へ至る前に「死」と「肉体」、そして「カイロス」の問題について、より深く考察したく思う。

(後編へ続く)

*1:谷川渥『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』白水社

*2:三島由紀夫仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*3:三島由紀夫仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*4:三島由紀夫仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*5:三島由紀夫仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*6:三島由紀夫金閣寺」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*7:谷川渥『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』白水社

*8:谷川渥『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』白水社

*9:三島由紀夫「若きサムライのための精神講話」――『若きサムライのために』文芸春秋

*10:谷川渥『肉体の迷宮』東京書籍