旅人の手記 三冊目 ‐ 蝉海のブログ -

日常のよしなし事や、マンガ・アニメ・ライトノベルなどのポップ・カルチャーに関する文章をつらつらと述べるブログ。その他の話題もたまに。とっても不定期に更新中。

怠惰のカルタ(1)

 怠惰というものは、全く恐ろしい。最悪「生きることすら面倒くさい」と考えるに至るからだ。その道は、他の罪業に比べれば安易で、誰にでも陥りやすい。
 そして私の中に、どうしようもなく物心ついたときよりまとわりつく悪癖――もはや不治の病といえる――と云えば、やはりこれであろうと思う。
 よく小説やマンガなどで題材にされるから皆さんもご存知であろうが、キリスト教には「七つの大罪」という概念がある。人間はこの罪の源を必ず持っているというが、その傾向、すなわちどの罪を多く持っているかということは、人によって異なるであろう。そして、私はこの中でひとつ選ぶとすれば、「怠惰 sloth」以外にないであろうなと思う。私の背後には、ベルフェゴールが憑いているに違いない。
 本当は、いろいろと語りたい主題もあるのだけれど、いざ筆を執らんとする――この場合は、キーボードなのであるが――と、どうしても論証性というものを鑑みてしまい、それを考えると時間のかかることと労力を惜しんでしまい、何もしないでいるということに陥ってしまう。批評など、簡単にできるものではない。拘り過ぎるともいう? いやはや、そんな高尚なものではない。物臭なだけなのである。事実、私はこの文章を打ち始めるのに、一時間要している。
 もうやめてしまえば、とも思う。実際、読書メーターTwitterもあるし、そっちをメインにしてもいいのだ。ブログである必要性は、もはや無きに等しい。はっきりいって、ブログが書けなくなったのはそっちで顕示欲を小出しにしてしまっているからだ。ブログに書く意欲と意味が、相対的に薄れてしまったのだろう。
 しかし、とはいえ、やはり拠点のようなものが全くなくなってしまい、そこが完全に認識されず、閑散としてしまうのは、やはり勿体無い。というか、この上さらに怠惰へ、懶惰へと拍車をかけることになるだろう。
 この手のものはやはり一度投げると、もう一度手につけるのに時間がかかってしまうのだ。何度か更新することを停止して、それはいやでも身についた。
 果てさて、本当にどうしようかと考えた挙句、思いついたのは散文である。

 散文。云うのは簡単。書くのは難し。

 さて。以前も更新に困ったとき、何をしたかをちょっと思い出してみた。そうだ。「お題」を答えたのだ。

 一昔前、「お題配布」なるものが流行った。それは配布元へリンクを張ることを条件として、その「お題」と称された単語(文章の場合もある)の羅列をコピーして、自由に小説やイラスト、随想などを書くというものである。まあ、どんな感じだったかは見てみたほうが早い。
 しかしこれ、苦労しても、自分で書いておきながら、その文章を自由にしがたく、満足感が余り得られないものである。やはり、もう余りやりたいとも思わない。さあ、どうしようかと。
 そこで思いついたのは「あいうえお順」で適当に思いついた単語について、適当に述べるという手法である。懸命な読者の方は――もしかして冒頭からお気づきかもしれないが、これ、はっきりいうと太宰治『懶惰の歌留多』そのままである。いろは順があいうえお順になっただけである。
 ええい、だらしない。でも、やはり書かなくてはならないのであるから、書くしかあるまい。私の無能さと馬鹿さ加減も書かねば、自分にも他人にも分からぬのだから、やはり書くしかないのだ。うん。

 
 Aisthesis

 英語のEstheticの語源である。古代ギリシア語で「知覚」の意味。ただしそれは受け取った感覚を何であるかが分かるとか、そうした狭い意味での知覚だけに留まらず、非常にその射程は広い。美学の分野でよく使われる。現象学でも使われる。
 正直、鬼の子なのだ。この概念。バウムガルテンの『美学 Aesthetica』以降、この概念は専ら美意識の問題において取り上げられるようになったが、「感性/理性」という二元論が崩れ始めた「反哲学(マルクス主義ニーチェ思想、分析心理学等のこと)」登場以後、哲学の分野において、単なる「表面的な美」や「感覚」という狭い意味以上に、この言葉は捉えられるようになる。
 私たちに分かりやすいように云えば「美的直観」とでも云えばいいのだろうか。正直、未だに私はこの言葉の扱いに苦慮する。


 イデア

 背後にある本当の世界のこと。ソクラテスプラトンが考えた。精霊(ダイモーン)を媒介として、私達はイデアを想起する。ダイモーンを統括する絶対存在が創造主(デーミウルゴス)である。絶対神の存在が、ユダヤの思想(ヘヴライズム)と親和性を持ち、新プラトン主義とかに発展する。だから、ぶっちゃけ、ヤオヨロズの我が国には馴染みのなく、煙たがられる思想である。
 
 しかし、別にこれ、私的哲学語辞典を作りたい訳じゃないんだけど、二つ続けて真っ先に出たのが、これであった。何とも、想像力のないことよ。話題変えるか?


 「五月蝿い! もう黙れ!」

 うん。そうだよね。そういいたくなるよね。でも、やめない。


 ええかっこしい

 過ぎると八方美人になる。私の事である。


 「雄々しく」とか「男らしく」とか

 私の事ではない。無縁である。というか忌避している。するようにしている。
 こういう状態を他人に無理強いする人間は、やばい幻想に憑かれているとしか思えない。ジェンダー論? いや、そういう問題じゃあない。勝手な幻像を思い描いて、自分がそうなるよう努めるのならば、個人の自由であるが、それを強要したら、人格の否定である。

 ううん。これ、いつもよりも時間かかっているんじゃないか。続けるのか。まあ、続きはまた、どん詰まったときにでも。次回は、たぶん、いつもどおり普通の記事だよ。多分。