旅人の手記 三冊目 ‐ 蝉海のブログ -

日常のよしなし事や、マンガ・アニメ・ライトノベルなどのポップ・カルチャーに関する文章をつらつらと述べるブログ。その他の話題もたまに。とっても不定期に更新中。

『さよならなんて云えないよ(美しさ)』と『突然』とにおける〈特権的瞬間=カイロス〉の差異性

 小沢健二さんの『さよならなんて云えないよ(美しさ)』という曲の中で、次のようなフレーズがあります。

「左にカーブを曲がると 光る海が見えてくる
僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも」

小沢健二『さよならなんて云えないよ(美しさ)』

 この箇所は小沢さんが今年の3月に、『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に出演されたときに取り上げられたことで、また再注目を受けているようです。
 私はこの曲を大学の先輩から教わったのですが、初めて聴いたとき「似たような情景を歌ったフレーズが別の曲にあったな」と既視感を覚えました。で、思い当たったのがこれです。

「海岸通り過ぎると 君の家が見える
過去も未来も忘れて 現在(いま)は君のことだけ」

the FIELD OF VIEW『突然』(作曲 織田哲郎 作詞 坂井泉水

 この二つのフレーズ、「海沿いの情景の中、現在を志向する」という点で共通しているんですよね。
 だからといって、どっちがどっちに影響を受けている、とかそういうことを指摘したいんじゃなくて、あくまで思弁的な共通性について、少し興味深く思ったんです。
 そしてさらに言うと、その現在というのは、時計の針が示す現在時刻でないことは言うまでもなく、主体(=歌詞の主人公)によって意識された現在であり、かつ特権的な瞬間であるということです。このような、時間のことをカイロスと私は読んでいるのですが、上にあげた二曲は両方とも、主人公が海を見て何かを思惟し、カイロス的高揚の只中にいるという点で、アナロジーを見出すことができるんです。

 しかし、それぞれが志向する対象は異なっている。
 前者は、この「僕」は「美しさを覚える自己の肯定」であり、意識の主体は自己に向かっているのに対し、後者は、主体が「君=他者」に意識が向かっているんです。
 この差異性こそ、「カイロス」の豊穣性の一端を表し、かつそれぞれの楽曲のオリジナリティを確立させている要因の一つなのではないかと私には思えます。

 同時代、全く違うアーティストによる二つの曲におけるワンフレーズの既視感から、「特権的瞬間」をめぐる差異性について少し思弁を廻らしてしまいました。