旅人の手記 三冊目 ‐ 蝉海のブログ -

日常のよしなし事や、マンガ・アニメ・ライトノベルなどのポップ・カルチャーに関する文章をつらつらと述べるブログ。その他の話題もたまに。とっても不定期に更新中。

〈論説〉実存の不安(或いはアイデンティティ・クライシス)と自己変革イデオロギー、及び脱大衆道徳性の問題――『忘却のクレイドル』完結に寄せて

※ 以下の作品について、物語の核心部分に関する記述があります。
  また文中には一部辛辣な表現もあります。
 
 『忘却のクレイドル』(藤野もやむ マッグガーデン
 『はこぶね白書』(〃)


 藤野もやむは、〈実存 existentia〉と内面意志の発現における問題と格闘してきたマンガ家である。彼女は、最初期の作品である『まいんどりーむ』から一貫して、人間の実存について問うてきた。その問題は、単にストーリーやテーマを語る上でなく、表現学的な立場に立ってみても、作中で貫徹されていると言えよう。
 例えば、『はこぶね白書』のぐるぐるへび。これは、そのストーリーの上での立場だけでなく、マンガという媒体そのものに本質を宿らせていて、「内面(物語)の媒介としての外面(作画)」という二元論の危うさに対し、執拗なまでの追究を存在全体で表している(詳しくは、拙稿「相模左甫のクロノス的「死への憧憬」と福田ねこのカイロス的「生への意思(意志)」に関する考察」参照のこと)
 そして先日、最終巻を発刊した『忘却のクレイドル』も、それまでの著作で取り扱ってきた「実存の問題」が、全篇に渡って問われていた。そして本作では、実存の問題のうち最もプリミティブな概念にあたる、〈生存 survival〉についてを主題として据えていたのである。
 
 
「実存」における最もプリミティブな概念としての生存

 本題へ入る前に、あらすじをざっと紹介しよう。
 
 開戦の危機が迫っている日本では、15歳以上の男女に半年間の「特殊訓練」が義務付けられていた。孤児達は揺篭島(ゆりかごとう)という孤島で訓練を受けていたのだが、ある日目覚めると数十年という時が経過していたのである。廃墟と化した島には、ナンバーズと呼ばれる白髪の子供たちが管理していた。彼らは孤児達を実験体と呼び、孤児達はナンバーズの手のひらで踊らされ、秩序を失い、凄絶な殺し合いをし始める。そのような絶望的な状況の中で主人公カヅキは、この島に流れ着いた少女ヒカリとともに、島における訓練の本当の目的と、ナンバーズたちの思惑、そして自分と友人であるサイの出自を知ることになる。訓練とは孤児たちを、極限まで治癒能力を高めたミュータントに改造し、前線で活躍させる兵器を作り上げ、かつ彼らのクローン(ナンバーズ)を生成するという、大規模な「実験」であったのだ。敗戦した日本は国際社会から糾弾されて、この島の事実を隠蔽した。残されたナンバーズは、この計画の首謀者である上月博士の下で、この島における支配者となったのだ。そしてカヅキは、外の孤児院で育てられた上月博士のクローン体であったのである。ヒカリは、コールドスリープの状態にあった孤児達を封印する役目を背負ってここまで来たのであったが、母を道中で喪った「淋しさ」から、子供達を目覚めさせてしまったのだ。自らの正体を知ったカヅキは、ナンバーズに上月博士の前へ連行される。ところが、博士は既に死んでいた。博士に心酔していたナンバーズが、それを認めていなかったのである。カヅキと同様に真実を知ってしまったサイは、存在意義の喪失から島全体を爆破することを断行する。カヅキは、我が身を顧みずそれを阻止。ナンバーズは、一層上月に心酔していた少年エイトを残して、先の爆撃で死に絶えた。カヅキとサイの二人は治癒能力の限界に達してしまい消滅、残された子供たちがこの島で新たなコミュニティを作り上げることが示唆され、この物語は終焉を迎える。
 
 以上が、この『忘却のクレイドル』の概要である。「殺さなければ殺される」という、生存競争を強制される環境へ理不尽に叩き込まれ、登場人物達が各々殺しあうという本作のストーリーは、2000年代に隆盛したタイプのプロットといえよう。そうした作風は、映画『バトルロワイヤル』を先駆として、ディスコミュニケーション現代日本における世相と合致し、一世を風靡した。
 こうした、生存意識を至上とするような考え方の根本にあるのは、「実存に対する不安」である。人間を社会的存在者と考えるならば、「生存」というのは一人の個人が人間として値する前の大前提と言える。故に、そうした「生存する権利」は「人間」という類的存在が形成されるにあたって、最前の条件とならなければならない。しかし9.11以後、福利厚生の縮小と軍備拡大・市場原理主義を謳う新自由主義的世界観に呑まれた大衆は、旧来の「互恵的な社会の形成」というイデオロギーに対して不信を抱くようになった。そうして人々は分断され、ディスコミュニケーション化は促進していったのであった。
 以上のような「国家・社会への否定から、個人の生存競争の原理化へ」という、現実において起こったモメントは、本作『忘却のクレイドル』においても裏打ちされていて、この物語の骨子となっている。孤児である彼らは、そもそもにして社会的アイデンティティが浮薄である。しかも長いコールドスリープから目覚めてみれば、守るべき国家は既に敗北していた。その上、自分達の存在は国法によって、許されないものとなっている。アイデンティティどころか、生存理由(raison d'etre)すら否定されている彼らが行き着く先は、自らの生存を守り抜くこと(survival)しか他にない。そしてその行く末は、生存競争を原理として自己の存在を拡張していき、他者を排撃して新たな〈エートスethos(=慣習)〉を打ち立てるという決断を至上とする、「決断主義」へ結実するのだ。
 
 
サイの決断主義イデオロギーとカヅキの「普通」イデオロギー

「…オレ 小さい頃から 思っていたんだよな
 自分で自分を守る力を持つことを
 どうして躊躇わなきゃならないんだろうって
 (中略)
 無防備に 他人の良心をだけを ただ信じるだけなんて バカだ」
 
『忘却のクレイドル』第1巻 P.P. 120,121 石田 彩

 登場人物の一人であるサイは、自己防衛意識が非常に強いキャラクターとして描かれる。母親には捨てられ、義父からは性的虐待を受けてきたという過去(本作 第5巻 P.P. 86〜88)がある彼は他の孤児以上に、人間全体に対する不信と依存の感情が強い。そして脆弱なアイデンティティを持った彼は、懊悩の末に決断主義へ行き着く。

「実行しない 欲望を持つくらいなら 揺籠の中の幼児を殺せ」
 
『忘却のクレイドル』第3巻 P. 165 石田 彩

 これはイギリスの詩人、William Blake(1757〜1827)の詩篇『天国と地獄の結婚 From The Marriage of Heaven and Hell』に収録された作品のうち、『地獄の格言 Proverds of Hell』(訳 松島正一)という詩の一節である。

Sooner murder an infant in its cradle than nurse unacted desires.
実行しない欲望を胸に抱いているくらいなら、揺籃のなかの幼児を殺せ。
 
『天国と地獄の結婚 From The Marriage of Heaven and Hell』
――『地獄の格言 Proverds of Hell』
William Blake(訳 松島正一)

 岩波版『対訳 ブレイク詩集』において、訳者の松島はこの一文について、「欲望の肯定を過激に表現している」と述べている。この解釈は、サイの決断主義的な思想と合致している。

「オレは自分の 野望の為に この島を出るよ」
 
「…小さい頃 オレは王様に なりたかった」
 
『忘却のクレイドル』第3巻 P. 165,166 石田 彩

 他者から施される無条件のケアを信じられぬサイは、自らの自我を拡張させて、我が身を守る。その原動力こそがまさしく〈欲望=野望〉であるのだ。

「世界の仕組みを 何もかも知って
 納得のいくような 世界にできたらって 思ったりはする」
 
「力がほしい」
 
「……『一念は無限を満たす』」
「……そう信じたい」 
 
『忘却のクレイドル』第5巻 P. 19,20 石田 彩

 「一念は無限を満たす One thought fills immensity」という言葉の出典は、先程の「実行しない〜」という一節と同じく、『地獄の箴言』からである。「一念」は個人、「無限」は他者としてのセカイ。(=自己の認識範囲) サイの野望は自らに変革を強制し、セカイに対しても変革を強制する。
 このような、独断的な思想を持つサイにとって、「日常」という概念は存在しない。いつ崩れるとも分からない、そうした安易な平和を望むのは、単なる「思考停止」として切って捨てるのが、彼の思考形式の基本となっている。故に、日常とは何かを吟味しないまま日常にアイデンティティを委ねるカヅキは、サイにとって「甘い幻想に取り憑かれたもの」としか映り得ない。人間の行為を全て欲望に還元し、それを貫徹することを自己同一性の統合とする彼の観点では、「平和の永続」は「実行しない欲望」と解され、かつそれに依存する脆弱なアイデンティティ(=幼児)は、抹殺されるべきものなのだ。これが、サイの断行的な変革思想の基本形式である。
 
 このような「日常とアイデンティティ」に関するモメントは、藤野が自己の著作において散々表現してきたことで、「実存とは何か」を問うにあたって大きく絡んでくる問題である。以前私は「藤野もやむ作品における、ファンタジーというエッセンスと自己同一性拡散・統合の問題との連関についての考察」という論稿で、藤野の作品を次のように総括した。
 
 日常という曖昧模糊としていて脆弱な観念、またそれが備える排他性・暴力性、その根源にある母性へ依存するアイデンティティの弱さ。そうした命題を、ファンタジーという寓意を用いて批判し続けているのが、藤野もやむの著作なのである。
 
 自らの属する共同体(国家、社会)における日常を維持することは、他の共同体に所属する誰かの日常を犠牲にする恐れが伴う。貴族と平民、平民と奴隷、ブルジョワジープロレタリアート、大国と小国、先進国と後進国……、人間はその有史において様々な階級的対立を繰り広げてきたが、それは同時に共同体同士の対立でもあった。そうした不断の闘争を展開してきた人間の歴史の中に、ある特定の共同体に属した個人がいる。その個人の人格・思想は、当然自らが属する共同体に規定される。故に、個人は自分の所属する共同体の存続を最優先するために、たとい他の共同体を破壊する結果になったとしても、その使命に対して忠実に行為する。それ自体は実に自然なことであり、動物一般にも共通することである。ところが人間の場合、他の動物と違うところがある。それは、「自我の拡張性とその実行力」における問題だ。他の動物と違い、高度な知性と思考力を持ち合わせた人間は、その支配可能な領域に圧倒的な拡がりを見せる。その実際的な現象が「競争」であるのだ。この「競争」は、他の動物における食物連鎖の範囲に留まらず、全く慈悲なく、容赦なく、完膚なきまでに、他者の尊厳を奪い尽くす。従って、動物の捕食ならば類の存亡の危機が脅かされえることはまずないが、人間の場合、一つの家系、一つの民族、一つの人種が、競争によって絶滅することは、充分にありえるのだ。その最も暴力的な局面が「戦争」であり、それは科学技術の発展に伴って、自然そのものが滅亡し兼ねないレベルにまで、人間は辿り着いてしまったのだ。そうした世界に置かれた個人が「実存に対する不安」に見舞われることは、「「実存」における最もプリミティブな概念としての生存」の項で述べたとおりである。そして『クレイドル』は、まさにその戦争が今起こらんとしているという、極めて危機的な情勢から物語がスタートする。
 
 サイは、自分が生きる世界が、こうした競争の原理で成り立っていることに自覚的であり、かつ競争のイデオロギーを肯定する立場に立っている。(本項、冒頭部の引用を参照のこと) しかし一方のカヅキは、彼の言う「普通」や「日常」といったものが、そうした世界に配置された共同体に規定されていることに無自覚的であり、ひたすらその曖昧模糊とした日常にしがみつく。そして、そのイデオロギーが否定されようとすると、思考停止に陥る傾向が、作中で何度も描かれる。

「兵器とか そんな… …そんな言い方嫌だなぁ
 …何か機械っぽくて …人間じゃないみたい」
 
『忘却のクレイドル』第3巻 P. 93 夏月
 
「!! 思想って… 兵器とか 言ったって な…何だよ」
「普通でいいじゃんか 普通で!!」
「元々の感覚忘れちゃ 普通の生活も できなくなりそうだしさ…」
 
『忘却のクレイドル』第3巻 P. 95 夏月

 カヅキは、世界の仕組みに対して全く無自覚であり、またそうあろうとしている。それは結局、日常という「同調圧力」を他者に迫っていることに、彼は気がついていない。そしてその愚鈍さを、サイや、カヅキ達7月生と対立する4月生のミキヤから、度々糾弾されるのである。

「…変わんないなあ カヅキ…
 まわりをよく見ろ 普通なんてもう どこにもないんだ」
 
『忘却のクレイドル』第3巻 P. 95,96 石田 彩

 さて。このカヅキの抱いている「普通」イデオロギーと、サイの抱く「決断主義」は、全く対立しているように見えるが、両者ともに自らのイデオロギーにしがみつかないと、アイデンティティを保てないという点で、根本的には非常に良く似ている。問題は、そのイデオロギーに一貫性があるかどうかという点である。
 サイは、そのイデオロギーにある程度の一貫性がある。そして自分が、有無を言わさず相手を納得させてしまう独特のカリスマ性を保持していることを、自覚しているのだ。だから例え、イデオロギーに対して論理的整合性が虚弱な部分を指摘されても、極論や暴力によって相手を制止させてしまう。その実力と、それをやり抜ける自信が彼にはある。全ては、「野望」を貫徹させるために。……ナイーブな読者にとってサイは、一層優れた存在であるかのように映り得る。対してカヅキは、自らのイデオロギーに自覚的でないばかりか、置かれた環境に対して安易な願望を抱きがちでさえある。故に、サイはカヅキを指弾する。
 ――しかし、よくよく考えてみよう。そもそもサイが野望の下に、この世界に対して強制させる変革とは何か? 変革とは、今自分が置かれた日常(エートス)に対して〈パトス pathos(=情動・意志)〉を対置して、それらを合一する普遍的な〈ロゴス logos(=万物を統一する法則、真理)〉を見つけ出し、新たなエートスを打ち立てるモメントである。この運動が、到達するところは何か。それは、自分の思い描くエートス=日常を他者に押し付けることに帰依する。特にサイの場合、生存に関する「競争」を肯定する立場(決断主義)に立っているから、その嫌いは極めて強い。競争を肯定するサイの変革イデオロギーが打ち立てるエートスは、カヅキの抱く「無自覚な日常の他者への強要」イデオロギーと同様に、他者を排撃して自らの思い通りにすることである。しかしそれは結局、いずれは腐敗するであろう、新たなイデオローグを打ち立てるところに帰結してしまうのだ。よって、「生存競争を原理として自己の存在を拡張していき、他者を排撃して新たな〈エートスethos(=慣習)〉を打ち立てるという決断を至上とする決断主義」の行き着くところは、結局以前のエートスと同様か、それよりも悪いものであることさえあるのだ。他者の意志を抑制する、そうした排他性・暴力性を肯定する決断主義は、同様に排他性・暴力性を湛える旧来の「日常」イデオロギーを、何ら乗り越えていないのである。
 
 
自己変革の強制は、ナイーブな自己責任論へ帰結する

 ところがサイの指針としてきた決断主義は、上月博士の死と自分達が目覚めさせられた真相に気づいたとき、自壊を遂げることになるのだ。

「この島にあるものは全部偽者だ
 生き残ったオレ達も 作られたお前達も
 生き物の真似をしてるにすぎない」
 
『忘却のクレイドル』第5巻 P. 132,133 石田 彩

 計画の首謀者は、既に死んでいる。国は、自分達の存在すら許していない。自らの存在意義、社会的アイデンティティを完全に喪失したサイは、自らの実存への意志を放棄する。そして、この島全体を爆破して、全てを水泡に帰すことを選択した。しかし、カヅキは「ただ生きたい」という純粋な実存を意志し、それを拒絶する。サイは再生能力の限界に達して、死亡する。そしてカヅキも、ヒカリとの再会を果たし、それまで実感できなかった「他者とのつながり」を覚えた後、塵となって消滅した。

「「私が埋められたのは この水路のほとり
 だから友人たちは 思う存分 泣けるだろう」」
 
『忘却のクレイドル』第1巻 P. 160 石田 彩

 この言葉はウィリアム・ブレイクの墓碑銘であり、作中でサイが同期生であるマユムに対して、言い放ったものだ。またカヅキが消滅する寸前、この言葉を意識したと思われるモノローグが挿入される。

「ここは水路のほとり
 俺が死んだら 君は泣いてくれる
 そう思うだけで 単純な俺は 生きていけるんだ」
 
『忘却のクレイドル』第5巻 P. 187 夏月 

この言葉にかかってくるのは、「実存の意義と他者とのつながり」の問題である。社会的なアイデンティティを喪失した彼らは、自己の承認を欲する。
 そうした自己存在に対する無条件の承認という、孤児達が抱えた問題を、カヅキ達の同期生である少女シノは、新たなコミュニティを形成することで応えようとした。そして、同じく同期であるハルカやマユム達も、シノの意見に賛同する。これが、本作の最後に示された「希望」である。人は一人では生きていけない。複数の人間から作られる共同体の中で育まれるエートス、それはやがて排他的な性格を帯びていくこともあるだろう。しかし、それでも人には「言葉」がある。他者を慮る「理性」がある。それを、シノは実践しようとしているのだ。物語の序盤で提示された問題は、こうして最後にある程度の解答が出されるのである。
 しかし、だ。この解答は、サイの「決断主義」やカヅキの「日常依存・思考停止」に対して充分なものとは、到底言えない。それは、全篇を通じて、何よりも強調されているのが、「死が強迫される環境から、実存(existentia)・力(Power)・生きることへの意志 Will to liveが先立つ」というメッセージであるからである。子供同士が残虐な殺し合いをするという煽情性の高いストーリーを、膨大で煩雑で内容空疎なレトリックと、修練された画力を以って脚色し、あたかも「高尚な内容」を謳って無知な読者を陶酔させる、陰湿かつ小賢しいプロットが辿り着く主張は、超人思想や自己変革の強要になるであろう。行き着くところは結局、決断主義的な自己責任論である。物語の最後で提示される「人とのつながり」は、至極プリミティブでナイーブなものであり、「自己変革礼賛」という発想自体を覆すものではない。読者に残るメッセージは「自己変革」につながりかねない。畢竟、この物語はゼロ年代のあだ花にはなったが、乗り越えることはできなかった。
 ディスコミュニケーションに飽き飽きした大衆が現在求めているのは、シノが作中でわずかに示唆したようなコミュニティズムだ。そこで育まれる主体性は、この揺篭島のように、強迫的で他律的なところからくるものであってはならない。自律的でなければならない。自己に変革を強制し、他者に変革を強制したサイは、結局自己同一性拡散により自滅した。そこで彼は、自分の「決断主義」自体は反省していない。カヅキも最期に「人とのつながり」に気づいたものの、結局、サイの思想を乗り越えていない。コミュニティズムの萌芽は物語の終盤で描かれるものの、前の段落で述べた理由から、メッセージとしては残りにくいであろう。
 
 そもそもにして、本作で問われた「個人の生存≒実存」と「社会的アイデンティティ」という問題は、前作『はこぶね白書』において明白な答えが出されているではないか。かつての日常に依存する相模左甫、自我の拡張によって他者に干渉を加える媒介となるぐるぐるへび、彼らのイデオロギーを認めた上で決別を果たし、現在自分が置かれたコミュニティ(盛森高校)へ帰還することを意志した

福田ねこ。
「それ 私の大切なものなんでしょ
 だから私に聞くんでしょ だったらダメ
 ……返して
 あなたは「ぐるぐるへび」じゃない
 あなたの名前は「ぐるぐるへび」じゃないから
 全部返して」
 
はこぶね白書』第7巻 P.P. 87,88 福田ねこ

「……愛
 ……そうか …あのひと 左甫くんに消えてほしくなかったのかも
 だから私はここにいて 左甫くんを愛しちゃってるのかも!!」
 
はこぶね白書』第7巻 P.P. 115〜118 福田ねこ

ここには「自己の無条件の承認」という、コミュニティズムの基本となる理念が貫徹されている。それに対して『クレイドル』が示した結論は、余りにもナイーブではないか。実存の最もプリミティブな問題である「生存」が基底に据えられているから、その行き着く先がナイーブな解答になるのも致し方ないともいえるが、そのドラマツルギーと表現方法については、同作者の著作である『ナイトメア☆チルドレン』などと比べても、その倫理的な無責任さは免れないであろう。
 
 
総括

 こんな風に言うと、「同じ作者だからって、作品が別ならメッセージだって違うものになるのがあたり前じゃん。お前が気に入らないからって、偉そうに非難してんじゃねーよ」という、突き上げが予想される。確かに、同じ作者でもそれぞれの作品によって、その作者が持っている思想の「方向性」は異なる。しかし、その根底にある「思想」それ自体は、藤野の著作全てに通じていることは、疑いないであろう。もし、そこにさえ差異があるということは、それは作者の思想が変遷を遂げているということに過ぎない。
 非難を浴びることを承知で言うが、私は貫通的に藤野の著作におけるイデオロギーを鑑みられない、そうした無批判な読者が多いことに、やや失望の色を隠せない。彼、彼女らは、無自覚のうちに、この物語の行き着く「自己変革・自己責任」のイデオロギーを肯定してしまっているのではないか。正直、危険なものを感じる。大衆の倫理から乖離したこの作品のイデオロギーを無条件に肯定することは、大衆から乖離することにつながる。
 
 結局、藤野はこの作品において、これまで示してきた「実存の問題」に対して、極めてプリミティブな地平で捕らえ直したに過ぎなかった。それもドラスティックで煽情的な描写により、反大衆的なイデオロギーを読者に残して。前作『はこぶね白書』で提示された「実存と社会性の対立におけるアウフベーヘン」を引っ掻き回した藤野は、今後の創作において示さなければならないイデオロギーのハードルを、極めて高い次元に設定してしまったと言えよう。
 
 
底本

『忘却のクレイドル 1〜5』藤野もやむ マッグガーデン

参考文献・URL
はこぶね白書 1〜7』藤野もやむ マッグガーデン
『世界の詩55 ブレイク詩集』William Blake 訳 寿岳文章 彌生書房
『ブレイク詩集』William Blake 訳 土居光知 平凡社
『対訳 ブレイク詩集』William Blake 訳 松島正一 岩波書店
紙屋研究所
――「死の前に生が輝くという思想について 諌山創『進撃の巨人』」
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20101204/1291481444
「おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』」
――「第13回 はこぶね白書
http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/comic/013.html
――「第67回 忘却のクレイドル」
http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/comic/067.html