旅人の手記 三冊目 ‐ 蝉海のブログ -

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〈論説〉『デュラララ!!』による、美学的見地から推論するデュラハンという存在と、岸谷新羅のファナティックな美的観念より考察する、恋愛におけるエゴイズム

 以下に記述するのは、現在放送されているアニメ『デュラララ!!』(TBS 金曜深夜 原作:成田良悟 メディアワークス 刊)の作中で描写される、「デュラハン」という存在に対しての美的観念についての推論である。

 「首なしライダー」というのは、実際の日本でも実しやかに伝えられている都市伝説であるが、ご周知の通りこの物語では、セルティ・ストルルソンという名で実在する。
 彼女は喪失した自分の首を求めて世界中を彷徨っているバイク乗りで、首を無くす以前の記憶がない。――幽玄にして堅牢。そのようなセルティは現在、池袋で岸谷新羅という闇医者と同棲している。
 本作ではこの二者の関係について、岸谷新羅という主体の観点から、デュラハンという存在における、美的観念の考察がなされるが、それが実に興味深いものであった。

 「首」がない人体という対象に対し、人はどのような美的判断を下すのか?
 
 岸谷はセルティを、「首がないからこそ、完成された存在」と捉えている。ここでいう完成というのは、美的観念の完成体と考えて間違いはない。
 欠損を経る美の完成というと、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケといった、ヘレニズム彫刻を思い浮かべる人は多いだろう。それでは何故、そこに「美」は生まれるのか? それは喪失によって、想像力を経る官能性を想起させられるからである。
 
 セルティは首がない。首がないということは、客体(セルティ以外の主体からの認識)にとって、それを補完するイメージの生成における自由が与えられるということだ。
 通常、人は対象を認識するとき、それに対してイメージを投影して理解しようとする。(印象=感性の機能) しかし、「首(顔)」という情報が与えられないため、想像による補完が必要となる。そこには願望が対象に投影されるのに際し、他の情報を介さない。従って、具体的な情報が与えられるときよりも、より強烈なものとして主体へ認識される。
 そうして岸谷は、セルティの肉体に対して、官能的で性的で、ファナティックな美的幻想を抱くのである。
 
 そしてこの一連の幻想は、ピュグマリオニズム(人形愛)*1あるいは、逆ピュグマニオリズム*2との連関性を見出すことができると考えられよう。
 ピュグマニオリズムとは、美学・芸術論において使われるテクニカルタームであり、主体が自我のない対象(人形)に対して、それを「生きた女性のように愛する」という意味で使われる言葉だ。そこからさらに発展した考え方として、逆ピュグマニオリズムという観念もある。これは、ピュグマニオリズムとは逆に、自我のある対象(=生きた女性)を、「人形のように愛する」様のことを指している。
 この二つの観念が意味するところは、他者性の否定だ。対象に対して、自分のイメージ通りの女性像を投影するということ、現実の女性を人形という自我のないものと捉えるということ。畢竟、いずれにしても対象が自我を有することを、主体は許していないのだ。ピュグマニオリズムも、逆ピュグマニオリズムも、主体が対象を思惟するままに所有したいという、欲望の発露であることに変わりはない。
 
 そして考えるに、これらの観念におけるエッセンスは、岸谷新羅におけるケースにも符合することだろう。
 彼は、セルティが自分の首を取り戻すことを、頑なに拒んでいる。それは岸谷にとって、セルティは首がないことで、美的に完成された存在であるからだ。劇中で「君が君でなくなってしまいそうで」「首を取り返したら、君が何処かへ行ってしまいそうだ」と述べているが、それはセルティの首が元通りになることが、岸谷にとっての甘美でファナティックなイメージの破壊につながるからである。
 今のままであれば、岸谷は求めるままのイメージをセルティに対して投影することができる。そうでなくなるのを、彼は恐れているのだ。これは紛れもなく、「首を求める」セルティの自我を否定しているということである。それどころか、岸谷は首が見つかったことさえ、彼女に黙っていた。
 このような恣意的なイメージを、いつまでも投影し続けていたいという感情は、所有欲と言う他に何と言えるか。つまり岸谷は、欠損によるイメージの補完から、鮮烈な憧憬をセルティに対して抱くことを端緒として、彼女の肉体を所有したいという、支配欲へと膨張していると言えよう。
 
 そしてこうした美的観念のプロセスは、セルティのような特殊なケースに限らず、恋愛一般に言えることだ。
 岸谷の恋慕がエゴイズム的幻想に事を発するものであり、それは先鋭化されたエロス(肉体的性愛)であることは間違いない。しかし恋愛というものは、まずそうした感覚的(異性に対する性的なイメージ)なところから始まるものだからだ。
 このことは認識のプロセスとして、まず自身の感性が働くことに基づく。岸谷のケースと一般における恋愛の違いは、それがファナティックであるかどうかという程度問題である。
 
 しかし興味深いのは、そのような一連の事実を受け入れて、現状の関係を維持させることをセルティが選択したことだ。
 岸谷のその狂信的な恋慕と、それに因る身勝手な一連の行為を、セルティは「認めた」。そして、これからにおける二人の関係をお互いに確認し合い、現状を維持することを選択したのだ。
 しかし、それを互いの価値を認め合う「精神的愛情(アガペー)」が確認できると考えるのは、早計である。これまでのエピソードは、二人の関係が発展する契機とは成り得るであろうが、互いの存在性を再確認からその状態が続けていけるかどうかは、この先次第であるのだから。
 
 先月で1クール目放映したことになり、前半に当たるエピソードが終了した。私は原作を読んでいないので、岸谷とセルティの関係は、これからどのような展開を見せてくれるのか、非常に楽しみである。
 
 
追記:
 セルティの肉体における美学考察については、ヘレニズム的西洋美学における、「濡れ衣(ヴェール)」という観点からも見逃せない。
 これは、身体にフィットする衣服がエロティシズムを表現するという思想であり、セルティの着衣しているライティングウェア(バイクスーツ)などは、ボディラインを強調するものであり、まさにこの観念に適合した衣服であるが、それをファナティックなエロティシズム的幻想への導入における、ファクターの一つと見てもいい。
 
追記2:
 本文にも記述しているように、私はこのアニメの原作を読んでいません。ここまでの推論は、アニメの現行放送分(第12話)までのデータを基に執筆したものです。そうでありますから、この先の展開においてネタバレになるような記述を含んでのご質問、ご意見などはご遠慮下さい。

 
参考文献

『肉体の迷宮』谷川渥 東京書籍

*1:ギリシア神話に登場する彫刻家に由来。彫刻家ピュグマリオーンは自分が描く理想の女性を、彫刻として造形した。するとそこに神の力によって魂が宿り、彫刻は本物の女性と化したという。因みに、「人形愛」という訳語は作家である澁澤龍彦によるもの。

*2:美学者である谷川渥が『肉体の迷宮』などの著書によって、提唱している観念。この観念に拠り、ピュグマニオリズムも逆ピュグマニオリズムも、男性の性的なエゴイズムであることに変わりはないことが推論できる。